沖田総司の患っていた病気とは? 〜天才剣士を死に至らしめた不治の病〜

「幕末に活躍した天才剣士は誰?」と問われれば、
多くの人が「新選組一番隊隊長の沖田総司」と答えるでしょう。

今もなお、人々を魅了し続ける沖田総司ですが、
彼は当時、不治の病とされていた“労咳(ろうがい)= 肺結核”を患い、
わずか24歳(25歳、27歳という説もあり)という若さでこの世を去ってしまいました。

ここでは、沖田の人生と、彼を死に至らしめた病気が
どのようなものだったのかということを検証していきたいと思います。


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●天才剣士・沖田総司の歩んだ人生

・幼少期

1842年(諸説あり)の夏、白川藩士であった沖田勝次郎の長男として江戸で生まれました。
幼名は宗次郎、本姓は藤原春政(後に房良に改名)といいます。
幼い頃に両親を亡くした宗次郎を、姉みつが母親代わりとなって育てました。

・近藤勇との出会い、天才剣士の誕生

9歳の頃に、近藤周助の内弟子として天然理心流の道場・試衛館に入門。このとき、
のちの新選組総長となる近藤勇(周介の息子)と出会い、以後、勇を兄として慕うようになりました。

天賦の剣術の才能に恵まれた沖田は、すぐに頭角を現します。

入門してからわずか数年のうちに指南役(つまり剣術の先生)に勝利したり、
近藤勇とともに他道場へ出稽古に行ったりしていたといわれています。

20歳の頃には免許皆伝を受け、試衛館の塾長も務めました。

・新選組一番隊隊長としての活躍

近藤勇や土方歳三らと共に「浪士組」に参加し、江戸から京都へ赴きます。
「新選組」結成後は、精鋭揃いの一番隊を率いる隊長に抜擢されました。

芹沢鴨暗殺、内山彦次郎暗殺、山南敬助脱走追跡および切腹の介錯などの場において、
重要な任務を果たしたといわれています。

沖田が関わった仕事の中でも、特に有名なのが「池田屋事件」です。

長州・土佐藩などの尊王攘夷派の志士による京都御所焼き討ち計画を事前に察知した新選組は、
京都の旅館・池田屋で謀議をしていた攘夷派志士を襲撃しました。

このとき池田屋に最初に踏み込んだメンバーの中に、
近藤勇、藤堂平助、永倉新八らとともに沖田総司がいました。

この活躍が評価され、新選組は一躍有名になりました。

・病魔の進行、人生の終焉

新選組がその名を轟かせた池田屋事件での切込みの最中、
沖田は喀血、昏倒したといわれています。

このとき、彼が患っていた病気が、労咳(ろうがい)、現在でいうところの肺結核でした。

しかし、“池田屋事件の際に労咳を発症した”という説に根拠はなく、
実は熱中症だったのではないかという説もあります。

いつ労咳を発症したのかは定かではありませんが、
彼の身体が病に蝕まれていたことは間違いなく、だんだんと症状が悪化し、
戦に参加することもできなくなり、そして、24歳(25歳、27歳と諸説あり)でその短い生涯を終えました。

●沖田総司を蝕んだ“労咳”とはどんな病気なのか?

・原因や主な症状

江戸時代には“労咳”と呼ばれた肺結核は、主に結核菌によって引き起こされる感染症です。

主な症状は、咳、全身の倦怠感や体重減少、微熱が続く、などです。

重症化すると喀血や呼吸困難、他臓器の機能障害等を引き起こし、
生命に関わるような症状へと進行していきます。

空気感染により感染しますが、たとえ感染した(結核菌が体内に侵入した)としても
多くの人は発症しません

しかし、免疫力が低下している人などが感染した場合には重い症状が現れ、
適切な治療を行わない場合には、死に至ることもある病気です。

事実、現代においても、結核は世界における病気死亡理由の上位
位置づけられていますし、日本でも毎年約1000人以上の方が結核によって亡くなっています。

・筆者も実は肺結核患者だった

実は、もう10年以上前のことではありますが、筆者も肺結核と診断され、治療した経験があります。

当時勤務していた会社の定期健康診断でレントゲン撮影を行った際、
肺に小さな影が写りました。

そして精密検査の結果、肺結核と診断されてしまったのです。

確かに、なかなか疲れが取れない、コホコホした咳が続いている、という自覚はありました。

しかし、当時はまだ20代だったこともあり
(結核は過去の病気、もしくは老人がかかるものだと思い込んでいました)、
まさかそれが肺結核だとは思ってもみなかったので、とても驚きました。

ただし、排菌(感染者が咳などから結核菌を体外に排出すること)はしていなかったため、
入院の必要はなく、投薬治療のみを行うことになりました。

この投薬治療が結構大変で、抗生物質を一度に5種類、
9ヶ月間も服用する必要があったのです。

当時は旅行の際にも常に薬を持参しなければいけませんでしたし、
なかなか辛い時期でした。

しかし、無事に治療を終え、再発することもなく、
何事もなかったかのように、現在は元気に過ごしております!

・肺結核に侵された歴史上の偉人たち

現代では、筆者が体験したように、抗生物質できちんと治療すれば治る病気とされていますが、
診断方法や治療方法が確立されるまでは、世界中で“不治の病”と恐れられていました

沖田総司と同時代に生きた長州藩士の高杉晋作も、
同じく肺結核により、29歳の若さで亡くなりました。

沖田や高杉より後の時代においても、有名な俳人・正岡子規や、
小説家・樋口一葉らも肺結核を患っていたことで知られています。

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●まとめ

新選組の中でも屈指の人気を誇る一番隊隊長・沖田総司の人生と、
彼を蝕んだ病気、労咳=肺結核についてみてきました。

高い志を持って動乱の時代を生き抜こうとした若き天才剣士が、
不治の病であると聞かされたときの心境を想像すると、胸が痛みます。

もし、沖田の生きた時代に肺結核の治療法が確立されていたならば、
沖田はもっと長生きして志士として活躍し、歴史を今とは違った方向に導いていたかもしれません。

現代を生きる私たちは、定期的に健康診断を受けて、
病気の早期発見、早期治療を心がけ、沖田総司の分まで長生きしたいものですね。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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