戦国時代の始まりとその理由 いまさら聞けないきっかけを解説!

ゲームやドラマなどでおなじみの戦国時代。

「推しの武将がいるよ」という方も多いのではないでしょうか。

確かに、どんな敵にもひるまない強い武将、策略に長けた智将など、
いろんな魅力のある人がいますよね。

でも、庶民からすれば、平和な世の中が一番のはず。

今回は、どうして戦国時代が始まってしまったのか、
その理由についてお話したいと思います。


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●そもそもなんで「戦国時代」なの?

始まりの理由を説明する前に、「戦国時代」という名称について考えてみましょう。

実は戦国時代だけ、その他の時代とは名前の付け方が変わっています。

奈良・平安・鎌倉・室町・江戸は、国の中心となる政権の所在地
つまり、天皇や将軍がいる場所の地名です。

でも「戦国時代」は違います。

そんな地名はどこにもありませんよね。

「戦国」という言葉は、1508年に左大臣近衛尚通が「現在のありさまは、まるで戦国時代のようだ」と
日記に書いているほか、武田信玄の分国法「甲州法度之次第」にも、
「天下戦国の上は…」というように使われています。

左大臣の日記は、古代中国の春秋戦国時代のことをふまえた表現です。

一方で、武田信玄は「今は戦いの世の中だ」とはっきり言っています。

そのため、この時代を戦国時代と呼んでいるということは、
政権がある場所が不明確だった」とみんなが認識していたと考えられます。

天皇は京都にいましたが、天皇は政権の中心とは見なされていなかったようです。

もちろん、室町幕府15代将軍・足利義昭も、1588年に織田信長に追放され、
幕府が滅亡するまでは京都にいましたが、もはや何の権威も持たなかったのです。

●人の世虚し応仁の乱 

では、なぜそんな戦国時代になってしまったのでしょうか。

戦国時代は、室町時代後期から、江戸時代初期までの世の中が混乱し、戦乱が続いた時代です。

戦乱が続いてしまった理由はさまざまありますが、
その始まりは「応仁の乱」だったとされています。

応仁の乱が起こったのは1467年。
私は「人(1)の世(4)虚しい(67)応仁の乱」と年号を覚えました。

すべての年号を覚える必要はないと思いますが、
ターニングポイントになる出来事だけでも覚えておくと、分かりやすくなりますよ。

室町幕府8代将軍・足利義政の後継者問題に端を発し、細川氏、
山名氏という有力守護大名を中心に、全国の守護が二つに分かれて争った内乱です。

この約11年続いた争いによって、室町幕府の権威は失墜。
混乱は都・京都だけでなく、全国へ広がっていきました。

この混乱の中で台頭したのが戦国大名と呼ばれる有力者たちでした。
彼らは、下の立場の者が上の立場の者を倒す「下剋上」によって成り上がっていきました。

京都の人は今でも「先の戦は大変でしたねえ」と言うと、
太平洋戦争のことではなく、応仁の乱のことを指す。
というエピソードがあります。

それだけ応仁の乱では、京都が大変な被害を受けたということです。

また、戦国時代の始まりについては、応仁の乱ではなく、
京都の将軍を細川氏が追い出し(明応の政変)、
関東で北条早雲が伊豆の堀越公方を攻めた1493年から始まったという説もあります。

戦国時代の終わりについても諸説ありますが、
徳川家康が豊臣家を滅ぼした1615年の「大阪夏の陣」までとする説が有力です。

●最初の戦国大名・北条早雲 最近最もイメージの変わった男?

明応の政変の説明でも少し登場した北条早雲が戦国大名の始まりだと言われています。

戦国時代で「北条」といえば、関東を支配した超有力大名
その祖とされるのが早雲です。

昔の小説などでは、一介の浪人から大名までのし上がった
下剋上の典型的な例
として描かれています。

確かにその方がスペクタクルで面白いのですが、残念なことに最近の研究では、
早雲は室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏の出身。幕府の役人でした。

浪人とまではいきませんが、一役人から、将軍家の一族を倒して二か国の領主になるという
史上初の下剋上を成し遂げた早雲は、やはり、偉大な人物でしょう。

ちなみに、名前の「早雲」は諱(いみな)ではなく、号です。

諱はよく分かっておらず、「長氏」、「氏茂」、「氏盛」などいろいろありましたが、
最近は「盛時」が定説です。

諱は、読み通り「忌み名」=読んではいけない名前ですので、
普段呼ばれていた通称は「新九郎」とされています。

ゆうきまさみさんの漫画「新九郎、奔る!」は、
北条早雲を伊勢新九郎として描いています。

少し難しい室町末期の時代の様子がよくわかるおすすめの漫画です。
歴史に詳しくなくても楽しめますよ。

●戦国時代だって楽しみたい!独自に発展した文化

戦国時代は紛争の多かった時代ではありますが、
ずっと戦いばかりをしていたわけではありません。

戦国大名も、文化を大事にしました。

これは、文化的要素を身に着けることで、貴族たちに認められる、
箔付けされるというのも理由にありますが、結果的にはパトロンとして、
多くの文化人を育てることにつながりました。

日本独特の感性「わび」を取り入れた「わび茶」を大成させた千利休は、
信長や秀吉など有力な大名の元で、その文化を広めていきました。

新興勢力である戦国大名たちは、保守的な貴族と比べて新しいもの好き。
スペイン、ポルトガルとの南蛮貿易により、西洋の文化も取り入れられました。

カステラや金平糖など、今でも普通に食べられている
お菓子の元ができたのもこのおかげです。

出雲大社の巫女だった出雲阿国が始めた歌舞伎踊りなど、
新しい芸能も登場しました。

歌舞伎踊りは江戸時代に花開き、
伝統文化として受け継がれている歌舞伎のルーツです。

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●まとめ

戦国時代という混乱の時代が始まった理由は複雑ですが、
応仁の乱が一つの大きな分岐点になりました。

室町幕府の将軍という権威が失われ、
北条早雲などのように下剋上によって成り上がる戦国大名が台頭しました。

とはいえ、世界にも発信できるに日本の文化の原型がたくさん生まれた時代でもありました。

「戦国時代」ははっきりとした始まりと終わりが決まっている時代ではありません。

日本史の勉強をしていると、時代や年号を大事にしがちですが、
それにとらわれず、時代の背景や本質を考えると、見えてくるものがあるかもしれません。

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