坂本龍馬の剣術流派は何?幕末剣士の中でどれくらい強かったのか?
坂本龍馬が剣術の流派として師事したのは、「北辰一刀流」と「小栗流」。
なんと、北辰一刀流は、剣術流派で史上最強と言われています。
また彼は、幕末剣士の中でも三本の指に入ると言われるほどの剣豪としても有名です。
亀山社中を作り、薩長同盟を実現させ、大政奉還の立役者となるなど、
日本の歴史上の人物の中でも常に圧倒的人気をもつ坂本龍馬。
彼はそういったビジネスや政治の面だけではなく、
剣術でも際立った存在感を誇っています。
この記事では、坂本龍馬と北辰一刀流について、
また彼が実際にどれくらい強かったのか、エピソードを交えご紹介します。
Contents
●剣術流派「北辰一刀流」
北辰一刀流は、江戸時代末期の剣豪である千葉周作の流派で、
現代の剣道の源流となっています。
千葉周作が設立した北辰一刀流の「玄武館」は、鏡神明智流の「士学館」、
神道無念流の「練兵館」とともに江戸三大道場と称されました。
特に「北辰一刀流」は圧倒的な人気を誇り、門下生が数多く集まりました。
それはなぜか??
その理由は、道場のシステム(カリキュラム)にあります。
剣士は免許皆伝に至るまで、昇段ごとに祝い金や礼金がかかっていましたが、
リーズナブルな金額で取り組むことができるということで、上級武士だけではなく、
庶民にまで門戸を広げたからです。
また幕末期は尊王攘夷運動が盛んで物騒な時代であったこともあり、
剣に覚えるある志士が道場の門をたたき、新撰組の山南敬助、藤堂平助、
江戸無血開城で活躍する幕臣山岡鉄舟など数々の剣豪を輩出しています。
それまでにない合理的な指導法で、他の流派では免許皆伝まで最低でも10年かかるところを、
北辰一刀流はたった5年で修業を実成することが可能であったとも言われています。
坂本龍馬は千葉周作の実弟・千葉定吉が開いた「桶町千葉道場」に弟子入りし、
北辰一刀流を極めます。
●北辰一刀流と坂本龍馬の出会い
坂本龍馬は土佐藩の郷士という下級武士の家に生まれ、身体は大きかったのですが、
13歳のころまで寝小便が治らず、気弱でまわりからいじめられていました。
そんな龍馬少年に、早くに母親を亡くした彼の母親代わりとなって
強い精神を叩き込んだのが、姉の乙女でした。
女性ながらも男勝りで剛毅な性格をもった乙女姉さんに尻をたたかれ、
1848年に地元土佐にある小栗流日根野道場で5年間懸命に稽古を重ね、
心身ともに鍛錬を積み「小栗流和兵法事目録」を習得します。
その後19歳になり、剣術修行のため江戸へ向かい、北辰一刀流の千葉道場の門をたたき、
千葉周作の実弟、千葉定吉に師事し、修業に励みます。
龍馬はめきめきと腕をあげ、千葉道場で塾頭を務め、1858年に「北辰一刀流長刀兵法目録」を
千葉定吉から授けられるのです。文章で書くと「そうなんだ・・・」となりますが、
これは、本当にすごいことなんですよ。
●剣術の腕前を証明するもの
坂本龍馬が千葉道場で圧倒的な実力を認められ、土佐藩の人間であることに関わらず、
塾頭に任名されました。訛りのきつい、ぽっと出の田舎侍がです。
そして、師である千葉定吉の娘「佐那」と結婚を許されていたことなどから、
剣術家としてもかなりの力量をもっていたと思われます。
*徳川幕府からも剣術の腕を恐れられていた
徳川幕府は薩長同盟を裏で指示したということで、龍馬を指名手配し潜伏していた寺田屋を襲います。
世にいう「寺田屋事件」で、幕府の役人は数にものをいわせて龍馬を追い詰めますが、
なかなか切り込めず、取り押さえることもできないまま結局取り逃がしてしまいます。
龍馬と言えば拳銃を懐に隠し持った写真が有名ですよね。
知らない人はいないと思います、
当時も、龍馬は拳銃も所持していました。
実は、幕府は拳銃の恐ろしさを、それほど感じていませんでした。
大勢で襲えば弾切れが起こるからです。
幕府は剣の達人である龍馬の実力をリサーチ済みであり、
それを本当に脅威に感じていたのです。
ですから、
大勢で取り囲んだにもかかわらず尻込みをしてしまったのです。
*桂小五郎と互角に立ち合う実力の持ち主
桂小五郎は政治家としてだけではなく、
剣豪としても有名だということを知っている人は少ないかもしれません。
彼は「幕末江戸三大道場」で「力の斎藤」と称される、練兵館道場に入門後、
たった1年で塾頭となったのです。
これは、異例の速さです。天性のセンスがあったのかも知れません。
そして、神道無念流の免許皆伝者でもあり、その突出した強さは今でも世に知られています。
龍馬はその桂小五郎と数回立ち合いをして、ほぼ互角であったと言われています。
●まとめ
江戸時代末期は剣術が空前のブームでした。スラムダンクを見てバスケ人口が急激に増えたように、
剣術を志す若者が江戸に集まりました。
そして、数多くの道場に身分問わず門下生が集まっていました。
その中から、多くの剣豪と呼ばれた人物が誕生していました。
しかしながら、彼らが直接剣をあわせたという史実はほとんどないため
「誰が一番強かったのか」「どれくらい強かったのか」というのは、
「もしも・・・」の、ファンタジーの世界です。
しかし、これが歴史の面白さでもあります。
剣豪と呼ばれている坂本龍馬ですが、彼は生涯の中で人を斬ったという事実はありません。
「言われているほどたいして強くなかったのでは?」と思う人もいるでしょう。
ですが、龍馬は小栗流と北辰一刀流の免許を皆伝しています。
ピラミッドの頂点にいる人しか免許皆伝できません。それを2つも・・・
ということなので、その結果だけ見たとしても、当時の江戸で、
1位2位を争う実力者だということが分かります。
特に北辰一刀流に関しては、皆伝書自体が残っていなかったため、
事実かどうか疑問に思う人も少なくありませんでした。
しかし、近年になり、龍馬が「北辰一刀流」の免許皆伝書を所持していたことを
示す文章が高知県で確認されています。
また龍馬は護身用に拳銃も持っていたとはいえ、最後は闇討ちのようなやり方で襲われましたが、
それまで幕末の物騒な京都で生き延びていることからも、圧倒的な剣術の使い手であったのではないでしょうか。
ただ坂本龍馬という人間は、争うことなく平和裏に大政奉還を提言したように、
基本的には人を傷つけることを最も嫌っていたのではないかと個人的には思っています。
剣術の腕を磨いたのも、まわりを剣の腕前でたたき伏せるといったような強さを
身に付けるためではなく、あくまでも自分がなすべきことを実行するため、
護身のためであったのではないかと思います。
そういった大きく、広い心をもった坂本龍馬という人間こそ、
剣術の強さもさることながら、本当の意味での人間としての「強さ」をもっていたと言えるのではないでしょうか。