坂本龍馬のやったこと ~ほかの維新志士とは違う龍馬独自の行動哲学とは?

●坂本龍馬の生い立ち

✱歴史の中の坂本龍馬

幕末の動乱期、様々な活動を繰り広げた志士たちの活躍は、
平和な時代を生きる私たちに若い頃は夢と情熱を、大人になれば人生訓と戦略眼を、
老境においては人生を豊かにしてくれる教養を与えてくれます。

坂本龍馬はそんな幕末の志士たちの中で異色の存在です。

スポンサードリンク




✱坂本龍馬の誕生と育った環境

坂本龍馬は天保6(1836)年に土佐藩、現在の高知県に生まれます。

坂本家は商人から武士に取り立てられ郷士(下級武士)となります。
土佐藩は独自の身分制度があり後藤象二郎や板垣退助、
武市瑞山は上士(上級武士)で、岡田以蔵や岩崎弥太郎は下級武士の家柄です。

ただ、龍馬の家は下級武士とはいえ商人から武士に取り立てられた際に
多くの財産をその本家から譲り受け、裕福だったと言います。

龍馬には年の離れた兄と有名な姉乙女がいて、
10歳で母が亡くなったあとは姉に面倒を見てもらったと伝えられています。

●坂本龍馬のやったこと①「土佐から江戸への留学」と尊皇攘夷

✱江戸への留学

龍馬は17歳になった嘉永6(1853)年と安政3(1856)年の2度にわたり剣術修行の為、
江戸に自費で「留学」します。

この滞在期間中、浦賀にペリーが来航(1853年)し、
龍馬も江戸の土佐藩邸の警備に参加しています。

✱桜田門外の変と土佐藩

江戸から土佐へ帰国した後、桜田門外の変が起こります。
そんな中、薩摩や長州の志士たちと交流を深めた武市瑞山が土佐勤王党を設立します。

土佐勤王党は当時土佐藩が支持していた、幕府と朝廷の融和を目指す公武合体論を改め、
幕府を倒し朝廷に実権を取り戻させる尊皇論に改めることを目標にしています。

✱尊皇と攘夷の合体

この尊王論は、当時の孝明天皇がペリーの来航以降の幕府の欧米諸国からの要求を
丸呑みするかのように見える対応を認めず、逆に欧米諸国を攻撃して追い払えと考えていた為、
尊皇攘夷とひとまとまりになります。

尊皇攘夷論は長州藩薩摩藩で盛んに語られます。

●坂本龍馬のやったこと②脱藩

✱島津久光の上京と影響

龍馬は尊皇攘夷論を掲げる土佐勤王党に入り、文久元年(1861)年秋から翌文久2(1862)年にかけ、
武市の指示を受け他藩に剣術修行を名目に訪れます。

この時長州藩の志士たちと出会い関係を深め、土佐藩に戻ります。

そんな中、土佐藩にも薩摩藩の島津久光が京都に軍を率いて向かっているという話が伝わります。

この時の島津久光は公武合体を支持していた為、
京都に行ったのは軍事力で公武合体を進めようと考えていたのですが、

各藩の志士たちはこれを倒幕のための挙兵だと考え参加しようと単身参加しようとします。

✱脱藩する坂本龍馬

武市は藩をまとめあげて参加すべきと考えましたが
龍馬は単独で参加すべきと考え脱藩してしまいます。

当然、島津久光は倒幕ではなく公武合体の為に上京していたので、
龍馬を始めとする志士たちは愕然とします。

脱藩して帰るところのなくなった志士たちの多くは
それでも自分たちで幕府を倒そうと反乱を起こしますが、
僅かな兵力でしたので幕府に鎮圧されてしまいます。

✱暴発しなかった龍馬、再び江戸へ

また、無理やり尊皇攘夷を実現しようとテロ行為をし始めるものも現れます。
これにも幕府は治安維持の為に新たに京都に新撰組を設立して取締りさせます。

龍馬はここでは暴発せず、ほかの藩を巡り以前に剣術を学んだ江戸に向かいます。
そこで恩師勝海舟と出会うことになります。

●坂本龍馬のやったこと③勝海舟への入門

✱攘夷論から開国論へ

勝は外国を追い払うことは、欧米諸国に比べて軍事力に劣る今の日本には難しいので、
欧米諸国から最新鋭の武器を手に入れ、軍事力を整えて欧米諸国に負けないようにすべきこと、
今の幕府の身分制度に基づく体制では欧米諸国に負けない国づくりは難しいと考えていました。

✱別れと飛躍の時

龍馬はそんな勝に心酔し、彼の元で江戸から神戸へと付き従いますが、
勝は神戸で設立された海軍操練所に居た志士のひとりが、
幕府に歯向かった末敗北した長州藩についたことを問題視され、江戸に呼び戻され、
海軍操練所も閉鎖されてしまいます。

行くあてのない龍馬ほを勝は薩摩藩に託します。

慶応元(1865)年、ここから龍馬の活躍が始まります。

●坂本龍馬のやったこと④日本初の株式会社の設立

✱亀山社中設立

龍馬は薩摩藩の五代友厚、を始めとする人々からの出資を受け
亀山社中を設立します。

龍馬は長崎に滞在し武器弾薬から船舶を購入し薩摩藩等の出資する藩へ渡します。

この時龍馬は薩摩藩と長州藩の連携を模索します。

薩摩藩は幕府側につき長州藩を攻撃した為、長州藩と敵対していました。

しかし龍馬は薩摩・長州両藩が同盟することで初めて欧州諸国と
渡り合える近代国家日本を立ち上げられると考えていました。

●坂本龍馬のやったこと⑤薩長同盟

✱敵対から助け合いへ

対立する両藩でしたが、龍馬の繰り返しての仲介と提案の結果、
関係が改善されていきます。

きっかけになったのは、米の不足する薩摩藩と近代的な装備のない長州藩の間に龍馬が立ち、
薩摩藩から近代的な武器弾薬を長州藩から米を交換します

✱努力の末に

また龍馬は盟友の中岡慎太郎と共に薩摩藩の西郷隆盛
長州藩の桂小五郎を説得し交渉の機会を繰り返し準備していき
最終的に和解させ薩長同盟と呼ばれる両藩の密約を成立させます。

✱逆転の時

この同盟関係はそれまでの幕府優位の状況を一変させ、
長州藩を攻撃した幕府軍が敗北し、薩摩藩長州藩を始めとする反幕府勢力が逆転します。

また龍馬はこの時、土佐藩を薩長同盟を中心とする反幕府勢力に
参加させ更に勢力を拡大させていきます。

●坂本龍馬のやったこと⑥海援隊の設立

✱海援隊の設立と土佐藩

この時、土佐藩は近代的な軍隊を立ち上げるために武器の購入が必要だったので、
龍馬の亀山社中を土佐藩の組織に組み込みます。これが海援隊です。

●坂本龍馬のやろうとしたこと

✱龍馬だから出来た奇跡

龍馬の活動により反幕府勢力は優勢になっていきます。
他の志士が自分の藩のことや尊皇攘夷を掲げて暴力的な活動を繰り返し、
結果的に破滅していくのに比べ、龍馬は一回りスケールの大きな方法で幕府の打倒を進めました。

恐らく龍馬がいなければ、敵対していた薩摩藩と長州藩が同盟することも、
お互いに援助し合い弱点を補填し合うようなことも
短期間で幕府を倒すことも出来なかったでしょう。

✱龍馬が生きていればどうなった?

結果的に龍馬自身は明治維新を迎えられませんでしたが、
もし迎えられたならどんな活動をしていたのか?

それは私たちだけでなく昔から話題になっていたようで、
後藤象二郎は龍馬が生きていれば、三菱のような商社を設立し活躍しただろうと評しています。

✱諦めず自暴自棄にならない柔軟さ

代々の武士ではなく、裕福な家庭で育ったことにより柔軟な発想と
自由な活動が許された龍馬は恩師である勝海舟がそうであったように

物事を大づかみに理解し考えるタイプで、
その感覚から考えて欧州諸国に追いつくための最短ルートを考え、
自分のなしうることは何か考え続けていたように思えます。

スポンサードリンク




✱最小の努力で得られる最大の利益が大政奉還と諸侯会議

だからこその単なる幕府の武力征伐ではなく、大政奉還を行い、
将軍家も残した上で天皇の名のもとに諸侯を議員として国政を担う議会制度の設立等を企図し、
船中八策等の献策をしたのは、近代的な経済人に近い感覚を持つ坂本龍馬ならではの
やったこと、功績と言えます。

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA