オードリー ヘップバーンとアンネ フランクについて気になる事項を解説
オードリー ヘップバーンとアンネ フランクに関する気になる事項を解説していきます。
「映画の妖精」と呼ばれ、没してもなおファンを魅了し続ける
女優オードリー ヘップバーンと『アンネの日記』の作者アンネ・フランクに共通する事項と
相違する事項があります。
スクリーンの中の女優と日記の作者という一見すると
何のつながりがないように思えるオードリー ヘップバーンと
アンネ フランクという対照的ともいえる2人の共通点と相違点を紹介していきます。
Contents
●1:同じ年に生まれているオードリー ヘップバーンとアンネ フランク
女優オードリー ヘップバーンは1929年5月4日、ベルギー・ブリュッセル生まれ、
『アンネの日記』の作者アンネ フランクは1929年6月12日、
ドイツ・フランクフルトで生まれました。
オードリー ヘップバーンとアンネ フランクは同じ年の1929年に生まれていますが、
誕生日はオードリー ヘップバーンの方がアンネ フランクよりも約1か月早いです。
オードリーとアンネの2人が10歳の時だった1939年に第二次世界大戦が勃発し、
オードリーは当時住んでいたイギリスから中立国オランダへ移り住みます。
アンネはナチス・ドイツの迫害から逃れるために1933年にオランダへと移り住みます。
オードリーは機密文書を運ぶスパイとして活動し、
バレエ公演で得た資金をナチス・ドイツに対する抵抗運動、
「レジスタンス」に寄付していたそうです。
アンネ フランクはナチス・ドイツの迫害を逃れるために隠れ家での生活を送り、
日記を書くことが唯一の自己表現の手段でした。
アンネが季節の変化を知ることができたのは
屋根裏の窓から1本の木を覗き見ることだったそうです。
アンネは1942年7月6日からオランダで隠れ家生活を送り、
隠れ家での生活は2年間にも及びました。
隠れ家生活の様子をアンネは日記に記し続けていきましたが、
1944年8月4日にナチス・ドイツに隠れ家を発見され、
強制収容所へと連行されてしまいます。
衛生環境が悪い収容所での生活に耐え抜くことができなかったアンネ フランクは
チフスを発症し、1945年3月12日に15歳という短い生涯を終えました。
収容所にアンネと共に連行された父親オットー・フランクは
娘アンネ フランクがオランダ語でつけていた日記を、
戦争と差別がない世界になって欲しい、というアンネの思いを伝えるために
日記の出版を決めました。
『アンネの日記』は60以上の言語に翻訳され、2500万部を超えるベストセラーとなりました。
●2:オードリー ヘップバーンに『アンネの日記』への出演依頼が来た
女優オードリー ヘップバーンは1947年に『アンネの日記』を
オランダ語で読んでいたことがあります。
1929年というアンネ フランクと同じ年に生まれ、
第二次世界大戦中にオランダで過ごしたという過去を持つオードリー ヘプバーンは
1957年、28歳の時に『アンネの日記』の映画に出演しないかという依頼を受けました。
映画『アンネの日記』への出演依頼を受けたオードリー ヘップバーンでしたが、
アンネ フランク役を演じることができないと、依頼を断りました。
アンネと同じ年に生まれ、オランダに住み、
第二次世界大戦を経験したという共通点を持つオードリー ヘップバーンにとって、
アンネ フランクの経験は自身と重なります。
悲惨な戦争を経験したオードリー ヘップバーンにとって、アンネ フランクを
演じることはあまりにも悲しく、苦しく、つらいことであったと推測されます。
アンネ フランクの父親オットー・フランクがオードリー ヘップバーンに
会いに来たのですが、オードリー ヘップバーンはアンネ フランク役を
引き受けることができなかったそうです。
1957年に映画『アンネの日記』への出演依頼を受けて以来33年後の1990年、
オードリー ヘップバーンは61歳の時にチャリティコンサートで『アンネの日記』を
朗読しました。
悲惨な戦争を体験したオードリー ヘップバーンは、世界から差別や戦争がなくなることを
願うアンネ フランクの思いを伝えたいという理由から『アンネの日記』を
朗読したのでしょう。
『アンネの日記』は『ジャイアンツ』で知られるジョージ・スティーブンスが
監督を務めて1959年に映画化され、アンネ フランク役を
アメリカ人女優ミリー・パーキンスが務めました。
第32回アカデミー賞で作品賞、助演男優賞、助演女優賞、監督賞、撮影賞(白黒)、
作曲賞、美術賞(白黒)、衣装デザイン賞(白黒)の合計8部門にノミネートされ、
助演女優賞、撮影賞(白黒)、美術賞(白黒)の合計3部門を受賞しました。
●3:オードリー ヘップバーンとアンネ フランクが戦時中に過ごした国
女優オードリー ヘップバーンと『アンネの日記』の作者アンネ フランクが
戦時中に過ごした国がオランダです。
ヨーロッパ北西部、北海に面している立憲君主国であり、
首都はアムステルダムで、言語はオランダ語です。
面積は41864平方キロメートル、日本の九州と同じくらいの面積を誇り、人口は約1747万人です。
江戸時代、日本が鎖国をしていた時代に唯一交易を
行っていた国として知られています。
芸術家ゴッホ、フェルメール、レンブラントの出身国であり、
『ロボコップ』で知られる映画監督ポール・バーホーベン、
『スピード』で知られる映画監督ヤン・デ・ボンもオランダ出身です。
『ブレードランナー』、『バットマン ビギンズ』などに
出演した俳優ルトガー・ハウアーもオランダ出身です。
まとめ
オードリー ヘップバーンとアンネ フランクについて気になる事項を解説してきました。
オードリー ヘップバーンとアンネ フランクは1929年という同じ年に生まれ、第二次世界大戦中にオランダで少女時代を過ごしたことがわかりました。
『アンネの日記』をオランダ語でオードリー ヘップバーンが読んでいたことがわかり、映画化に際してアンネ フランクの父親が会いに来ていたこともわかりました。
『アンネの日記』の映画化作品に出演が叶わなかったオードリー ヘップバーンでしたがチャリティコンサートの際に『アンネの日記』を朗読していることがわかりました。
オードリー ヘップバーンは晩年、ユニセフ親善大使として恵まれない子供たちのために力を尽くしていたことが知られています。
少女時代に悲惨な戦争を体験したからこそ、戦争や飢餓に苦しむ子供たちのために力を尽くせたのかもしれません。