【歴史トリビア】源頼朝がしたことって何??義経とはどういう関係だったのか。実は、、、
源頼朝がしたことはたくさんあります。
でも源頼朝ってあまりに偉大で、何をしたのか漠然としていてよく判らない、
という方も多いかもしれません。
今回はそんな方々に源頼朝がどういうことをしたか、
どういう過程を辿って源氏を一つにまとめ上げたかご紹介したいと思います。
決してスムーズなばかりではなかった彼の人生を辿ると、
源頼朝も大変だったんだなと共感するかもしれません。
是非最後まで読み進めて、源頼朝がしたことを知ってみてくださいね。
Contents
●源頼朝はローティーンで参戦した
まず源頼朝がしたこととして十代まで遡ってみましょう。
源氏と平氏が争った平治の乱で源頼朝は13歳で参戦しています。
初陣する年齢としてはそれほど早くなく、当時では普通でした。
ところが平治の乱は平清盛が勝利し、父の義朝は殺され、
腹違いの兄達も殺されてしまいます。
父や兄が殺され次は自分も、と源頼朝は絶望したことでしょう。
しかしまだ幼少であったことから清盛の継母に庇われ、命は許されました。
そして長い流人生活が始まっていきます。
●源頼朝は北条政子と結婚し、北条氏を味方に付けた
流人生活は20年続きました。
その中でも源頼朝は武芸や勉学には励んでいたそうです。
いつか平氏を倒してやろうと復讐心を募らせていたとする説や、
平氏に楯突つくことは考えていなかったとする説などがあります。
その間伊豆の豪族である北条氏の娘、政子と結婚しました。
北条氏は元々平氏の血筋で、父時宗は当初結婚に反対していましたが、
源頼朝の挙兵に従うなど、徐々に味方となっていきます。
●源頼朝は石橋山の戦いで大敗した
後白河院と平氏の関係が悪化し、後白河院の息子の以仁王が
「平氏を倒せ」と全国の武士に命令を発するようになって、
反平氏の武士達の期待が源頼朝に集まるようになっていきました。
源頼朝は挙兵を決意し、流人生活に別れを告げます。
しかし最初の戦いである石橋山の戦いは大敗に終わりました。
源頼朝は出直しを余儀なくされ、武士達に土地の支配権を与えるから
味方するようにと説得して味方を増やしました。
「そりゃ真っ向から勝負できる相手じゃないよな。まずは足元を固めないと!」
と反省したのでしょうか?
関東を地盤として勢力を広め、再び平氏に立ち向かっていきます。
●源頼朝は平氏を滅ぼした
平清盛が死んだこともあり、平氏の勢力は劣勢になっていきます。
そんな中で源頼朝は平氏を西国に追いやることに成功しました。
また後白河院と関係が悪化していた木曽義仲を源義経に討伐させます。
従兄弟である義仲を、弟である義経に討伐させるという源氏内の勢力争いです。
この辺一致団結していた平氏と比べ、
源氏は血塗られた一族というイメージなんですよね。
なにせ殺し合った末に源頼朝の直系は途絶えてしまうのですから。
その話は後世のこととして、源頼朝は西国に追いやった平氏を
ついに壇ノ浦で滅ぼしました。
父や兄を殺し、自分に流人生活を強いた平氏を倒したのです。
リベンジストーリーは大団円となりました!
●源頼朝は義経を自害させた
源頼朝と言えば義経との対立が有名です。
義経はいくさの天才で、彼がいなければ平氏を滅ぼすことはできませんでした。
でも義経は独断専行が目立ち、
朝廷から官位をもらうなど勝手な行動もありました。
源氏が朝廷の下風に立つようでは武家政権は作れないと
危惧した源頼朝は義経を討伐することを決めます。
義経は自害に追い込まれ、彼を匿った奥州藤原氏も滅ぼされました。
判官びいきという言葉があります。
弱い立場にある者に同情を寄せる日本人の特性を現した言葉ですが、
判官とは義経のことです。
兄の為に戦ったのに兄に自害させられた義経に人々は同情しました。
でも源頼朝にも言い分はあったでしょう。
源頼朝が義経を滅ぼしたことは日本初の武家政権を開くにあたって
どうしても必要だったと。
俺を悪者にしたきゃ悪者にすればいいよ!
と、源頼朝の声が聞こえてきそうです。
●まとめ
いかがだったでしょうか。
偉大なのは判るけど具体的に何をしたの?と思っていた方々には、
源頼朝がしたことについてお判りいただけたかと思います。
源頼朝が20年の流人生活に甘んじた末に平氏を滅ぼした過程は
決してスムーズではありませんでした。
負けいくさもあれば、弟を自害させるという苦汁を飲む経験もありました。
大変だったんだね、弟を殺したのは辛いね、でも武家政権をよく作ったね、
といろいろな感想を持っていただければ幸いです。