【歴史トリビア】源義経をわかりやすく!!その生涯やトリビアまで解説!
源義経をわかりやすく紹介したいと思います。
「判官びいき」という言葉があります。
「判官」とは源義経のこと。
31歳と言う若さで悲劇的な死を遂げた源義経に同情する人は今も昔も多く、
数多くの物語が生み出されました。
源義経は実は自害しておらず、モンゴルに逃げて初代皇帝チンギス・ハンになったという、
荒唐無稽な伝説も明治期に広まったほどです。
これも源義経に生き延びてほしかったとの人々の願いの表れでしょう。
源義経はどういう人で、どういう生涯を辿ったのでしょうか?
わかりやすく紹介していきたいと思います。
●源義経は源頼朝の弟として生まれた
まず略歴についてわかりやすく紹介します。
源義経は源義朝の9男として生まれ、幼い頃は牛若丸と呼ばれていました。
3男として生まれた源頼朝にとっては腹違いの弟にあたります。
母は美女として名高い常盤御前です。
平氏との戦いで義朝が死ぬと、出家を条件に命を救われ、
鞍馬寺に預けられました。
源義経はここで武芸を磨き、出家を拒否。
鞍馬を出ると、生涯の家来となる弁慶と出会い、
奥州藤原氏を頼って東北に向かいました。
●一の谷の戦いで勝利した源義経
頼朝が挙兵すると源義経は兄の元に馳せ参じ、
以後天才的ないくさぶりを発揮することになります。
その内の一つが一の谷の戦いです。
平氏は前は海、後ろは断崖絶壁という一の谷で厳重な陣営を作っていました。
戦いが始まっても源氏は平氏を攻め落とすことができません。
源義経は70名程の騎馬を連れて絶壁側に回り、騎馬で駆け下りました。
背後からの思わぬ奇襲に驚いた平氏は混乱し、源氏は大勝利を治めます。
この奇襲戦法は鵯越という絶壁の名前を取って
「鵯越の逆落とし」(ひよどりごえのさかおとし)と呼ばれました。
鵯越とはわかりやすく言うと、ひよどりしか越えられないような、という意味です。
そんな崖を騎馬で降りたなんて平氏でなくともびっくりしますよね!
●壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした源義経
壇ノ浦の戦いは平氏が得意とする海上戦でした。
初めは平氏が優勢でした。
しかし潮目が変わり、源氏が優勢になっていきます。
源義経は当時タブーであった船の漕ぎ手を
矢で射るように命じたとも言いますが、真偽は判りません。
平氏が劣勢になる中、勇猛な平教経はせめて源義経を打ち取ろうとしますが、
源義経は船から船へと飛び移って行ったと言います。
「八艘飛び」として有名です。
平氏の武将達が次々と入水して自害していく中、安徳天皇も祖母に抱かれて入水しました。
この時三種の神器である草薙剣も失われたのです。
●兄の頼朝に滅ぼされた源義経
源平合戦の最大の功労者となった源義経。
しかし兄の頼朝との対立が本格化します。
以前から独断専行が目立っていたこと、
また朝廷から官位を受けたことから頼朝から疎まれてしまったのです。
逃亡の身となった源義経は奥州藤原氏の藤原秀衡の元に逃げました。
しかし当主の藤原秀衡が亡くなると、息子の泰衡は源頼朝に屈服します。
源義経は堂にこもって自害し、
忠実な家来である弁慶は矢を受けながら最期まで主を守りました。
●まとめ
源義経についてわかりやすく紹介してみました。
源義経は奇襲戦法が得意な、
天才的ないくさ上手だったことがお判りいただけたかと思います。
一方で源頼朝と対立し、
とうとう自害に追い込まれるという悲劇の持ち主でもありました。
兄弟の対立についてはどちらにも言い分があったことでしょう。
源義経がもっと空気を読み、独断専行を慎んでいたら。
源頼朝ももっと功労者の弟を大事にし、
突き放すのではなく、うまく懐柔していたら。
と現代人としては思います。
彗星のように現れ、あっという間に消え去った。
源義経はそんな特異な存在でした。