【歴史トリビア】源義経は何時代の人物??時代背景と源義経の数々の逸話を掘り下げる

源義経といえば歴史の教科書やテレビドラマなどで
誰もが人生で一度は耳や目にする人気の高い歴史上の人物の一人です。

数々の逸話に加えてテレビドラマ等でもイケメン俳優が演じる事が多く
美男子」というイメージもあり、カリスマ性も兼ね備えた武将ですが、

源義経=何時代の人物?どんな事をした人?
と聞かれると少し答えに困る人もいるのでは?

今回は源義経が何時代に活躍した武将なのか。

時代背景や数々の逸話についてご紹介します。
また、もし義経が生き残っていたとしたらどうなっていたのか?

についても考えてみます。

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●源義経は何時代の武将?時代背景について

*その1.天皇・貴族中心の時代から武士の時代への転換期

源義経が生きた時代は平安時代後期から鎌倉時代初期です。

平安時代は、天皇家と藤原家を始めとする貴族が政治の実権を握った時代です。

源義経のような武士は天皇や貴族達のボディガードのような存在でしたが、
次第に力を付けていき天皇家や貴族達に代わり政治を取り仕切っていくようになります。

義経の兄である源頼朝によって開かれる鎌倉幕府は、
日本で初めての武士による政治政権となります。

これで源義経は何時代の人?と聞かれたら、
平安時代後期の武将だと答える事が出来ますね。

*その2.武家の二大勢力「源氏」と「平氏」

この時代の武家の二大勢力と言えば「源氏」と「平氏」です。

源頼朝や源義経が代表的な「源氏」。平清盛が代表的な「平氏」。
お互いに競うように力を付けていきますが、初めに「平氏」が頭角を現していきます。

平清盛によって政治の実権を握るまで力を持つようになると
平氏にあらずんば人にあらず」という言葉に表されるように
平安時代の後期に平氏は全盛期を迎えます。

しかし、平氏中心の政治で他からの反感を買ってしまうと最終的に
源頼朝や源義経を中心とする源氏に滅ぼされてしまいます。

この一連の流れが記されている軍記物が平家物語です。
横柄な態度はいずれ自分に帰ってくるという事注意しましょう。

ここまでで源義経は何時代の人?と聞かれたら、
平安時代後期の武将で平氏を滅ぼした源氏の中心的な武将だよ

とさらに詳しく答える事が出来るようになりましたね。

*その3.源義経の悲しい生い立ち

源義経の生い立ちの生い立ちについてですが、なかなかハードなものです。

義経は、源氏の棟梁だった源義朝と当時絶世の美女と有名であった側室の
常盤御前の間に三番目の子供として生まれます。

しかし、生まれてすぐに平治の乱という天皇や貴族同志の権力争いからの事件が起こり、
源氏が平氏に敗れた事で父を失い、その後京都の鞍馬寺に預けられ母とも引き離されてしまいます。

両親のいない幼少期を過ごして、
良くグレなかったなと感心するばかりです。

これで、源義経はどんな人?と聞かれたら、
両親と早くに引き離されて悲しい幼少期を過ごした事も答える事が出来ます。

どんどん行きましょう。

●源義経の型破りな逸話について

源義経には様々な伝説的な逸話が数多くあります。

ここでは、その型破りな逸話についてご紹介します。

*逸話その1.五条大橋での武蔵坊弁慶との対決

源義経と武蔵坊弁慶は京都の五条大橋で義経の刀をかけて決闘を行い、
見事義経が勝利を納めます。普通に考えて勝てるわけがないのです。その理由が体格の違いです。

源義経 身長 147㎝ 体重 47.5㎏  武蔵坊弁慶 身長 208㎝ 体重 100㎏
小学生とプロ格闘家(ヘビー級)の戦いです。本当に勝てるわけがないです。

*逸話その2.源平合戦、一ノ谷の戦い方について

源平合戦の第1ラウンド、一ノ谷の戦いが起こります。

ここでの義経の戦い方が型破りで、断崖絶壁を馬で駆け下りての奇襲作戦を行います。

馬を10頭落とせば2頭は下までたどり着けるかどうかで
人を乗せて駆け下りるなど見方ですら耳を疑う戦法でした。

しかし、結果は見事勝利し平氏は敗走します。

本当に正気の沙汰とは思えないです。天才の考える事は理解不能です。

*逸話その3.源平合戦、屋島の戦いについて

源平合戦の第2ラウンド、屋島の戦いでは、
義経は他の武将達の意見をはねのけ嵐の中、船を出します

通常三日間程かかる航路を数時間で渡航します。

そして、再び奇襲作戦をしかけて平氏に見事勝利を納めます。

嵐の中船を出せば、最悪戦う前に全滅するリスクもあります。

船頭や他の武将を振り切って、
作戦を実行する義経には成功の二文字しかなかったのでしょう。

不可能を可能にする為にはギャンブルも必要という事ですね。

もうここまでくると神です。

*逸話その4.大天狗師匠説について

義経は幼少期に京都の鞍馬寺に預けられており、勉学や武芸に打ち込んでいました。

そして、ちょうど11歳の頃に義経の素性を知り不憫に思った鞍馬山にいた大天狗から
平氏を倒せるようにと兵法の極意を授けられたと言われています。

大天狗といえば、子供にも人気の「最強王図鑑」にも登場する地域によっては
神様のように扱われる存在です。素早さや知性に優れ、神通力を操ります。

もし、義経が兵法の極意と共に能力も継承していたとしたら、
様々な戦いで無謀とも思われる作戦で勝利出来た事も腑に落ちますよね。

最強王義経誕生です。

源義経はどんな人?と聞かれたら、
様々な逸話と共に説明してみましょう。

●源義経の欠点ともし生き残っていたら

大天狗の後継者で源氏の大武将源義経ですが、
兄である頼朝を怒らせてしまい最終的には攻め滅ぼされてしまいます。

・壇ノ浦の合戦で三種の神器回収と安徳天皇救出に失敗した事
・頼朝の許しを得ずに出世をしてしまう(官位をもらう)事
・調子に乗りすぎていた事 

など

様々な理由が他にも伝えられています。

このような詰めの甘さが出てしまった義経の欠点を一言でいうと
人間関係の経験不足ではないでしょうか?

他者や俗世との関わりの少ない山奥で育ち、
その出生と才能から早くから一目を置かれ、

助言出来る人も少なかったのではないかとも思いますし、
割と奔放な性格で自分の意見を通すイメージも強い事から
聞く耳もあまり持ち合わせていなかったのではないかとも想像が出来ます。

現代社会で重ねて考えても上司である頼朝の考える方向性を理解出来ていなかったり、
社会の仕組みやルールを理解出来ていなかったりすれば
ただの常識外れの空気が読めない人と思われるでしょう。

報告・連絡・相談や基本的なコミュニケーションが
周りの先輩武将や上司である頼朝と出来ていれば最終的な結果は違ったかもしれません。

おそらく人知れず義経本人も悩んでいたのではないかと思います。

このような人間関係の経験不足を積めていたら、
武力と知力を併せ持った本当の最強王と呼べる武将になっていたかもしれませんね。

二代目鎌倉幕府の将軍としても政治を取り仕切って、
鎌倉幕府のその後や後世の時代も変わっていたのではないかと想像は膨らむばかりです。

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●まとめ

源義経は何時代の人?どんな事したの?と聞かれたら、
*源義経は、平安時代後期の源氏を代表する武将だよ。
*奇襲が得意で常識外れの型破りな戦い方で平氏を滅ぼした。大天狗が師匠だという伝説も残っているよ。
*人間関係をうまく出来ていたら二代目鎌倉幕府の将軍になっていたかもしれない。
と答える事が出来ますね。

皆さんも義経の事を反面教師にして人間関係をより良く出来るように生活してみて下さい。

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