【歴史トリビア】日本史にとって700年代とはどのような位置付けだったのか!?

日本史で700年代とは奈良時代であり710年に平城京に遷都され、
中国の都である長安をもした都を造営したとされる。

またこの時代は権力争いが激しく、
政争が多く起こった。

平城京への遷都に先立って施行された大宝律令が、
日本国内の実情に合うように、改修に改修を重ね、
律令国家で天皇の中心の中央集権を目指した時代であった。

また律令国家は戸籍と計帳で人々を把握すると租・庸・調と軍役をかした。

また海外とは遣唐使を送り唐をはじめとする大陸の文化を導入した。

また全国に国分寺を建てて仏教的な天平文化が栄えた。
そこでは、古事記・日本書紀・万葉集など現存する最古の歴史書文学が登場した。

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●奈良時代の前半の政治

日本史の奈良時代の700年代の前半は藤原不比等があらわれて政権をにぎり、
律令制度の確立に力をつくすとともに、皇室と縁組などをすることで、
藤原氏発展の基盤をかためた。

その後、不比等死後に政権を担当したのは長屋王であった。

彼は権勢を誇ったものの不比等の聖武天皇に即位したころから、
不比等の子である、武智麻呂・房前・宇合・麻呂の、いわゆる「藤原四兄弟」が進出した。

長屋王に対し藤原四兄弟が訴追して、長屋王を自害に追いこみ政権を手にする。

その後藤原氏は不比等の娘光明子を臣下で最初の皇后に立てることに成功したが
その後藤原四兄弟が天然痘の流行で相次いで死亡した。

●奈良時代の後半の政治

日本史の政治は700年代の奈良時代後半も変化がある橘諸兄が
吉備真備や玄昉を参加させて政権を担った。

これを不満であった藤原広嗣は真備らをのぞくこと狙い、
九州で挙兵したが敗死した。

それに聖武天皇は都をうつした。

そのうえ疫病や天災、地域豪族のいざこざ等が続き
民の不安はいっそう高まった。

かねて仏教を信仰していた聖武天皇は鎮護国家(仏教の力で国を治める)の思想により、
社会の動揺をしずめようと考え、東大寺の大仏を建造し
盛大な開眼供養がおこなわれた。

この間に光明皇后の信任を得た藤原仲麻呂が台頭し
橘諸兄から実権を奪い橘奈良麻呂も排除した。

仲麻呂は独裁的な権力を手中した。こともあろうか、唐風(中国風)に恵美押勝と改名し、
中国風の政治を推進したが、今度は孝謙上皇の寵愛を得た道鏡が頭角を現す。

押勝はこれを除くために反乱を起こして敗死した。これにより淳仁天皇は廃された。

道鏡は、やがて太政大臣禅師・法王となって、
一族の僧を高官に登用して権勢をふるい、仏教による政権の安定を画策した。

称徳天皇と道鏡は宇佐八幡宮に神託がくだったと吹聴した。

その結果、道鏡を皇位継承者に擁立しようとしたが、
藤原百川や和気清麻呂にはばまれ、
称徳天皇の没後に宇佐八幡宮神託事件で失脚した。

光仁天皇を擁立した藤原良継・百川らが出てきた。

実は、光仁天皇はこれまで続いてきた
天武天皇の血統ではなく、天智天皇の子孫であった。

この頃強まってきた寺社勢力からの脱却のため、
桓武天皇が長岡京を造成したが、工事の責任者の藤原種継が暗殺された。

794年に平安京と名づけて遷都した。そして平安時代がはじまる。

●大宝律令が完成する

日本史で700年代の法律である大宝律令が平城京への遷都に先立って施行された、
日本国内の実情に合うように変更されるなど試行錯誤を行ない、
天皇中心の中央集権を目指した時代であった。

この時期の律令国家は戸籍と計帳で人民を把握すると租・庸・調と軍役をかした。

そのころ負担に苦しむ農民の逃亡や、盗賊化が増えた。

その結果、政府は財源確保のため三世一身法を施行して開墾した。

このように奈良時代はこのあとの法律の基本が作られた。

●天平文化

この頃は遣唐使を送り唐をはじめとする大陸の文物を導入した。

全国に国分寺を建て、仏教的な天平文化が栄えた。
例えば『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』など
現存最古の日本史の書物が登場した。

また仏教の教えが700年代に広まり盧舎那大仏造立の詔を発した。
これにより東大寺大仏がつくられ完成する。

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●結論

日本史の700年代は政治・法律・文化などいろいろな分野で今の日本を作っている。
全ての基盤を作ったと言っても過言ではない。

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