【歴史トリビア】奈良時代に何があった??長屋王から道鏡まで4つのポイントに分けて解説
奈良時代は710年に元明天皇が平城京へ遷都してから
794年に桓武天皇が平安京に遷都するまでの
およそ80年ほどの期間をさします。
ではその奈良時代に何があったのでしょうか?
奈良時代は天武・持統天皇の二人が構築した律令政治を踏襲し、
日本の政治体制が確立された時代でした。
しかし、そこには藤原氏を中心とした
政治の主導権争いの泥沼化や仏教の台頭、
天皇家の皇位継承に関わる問題などもあった時代だったのです。
奈良時代にいったい何があったのか。
奈良時代に起こった出来事を
①律令政治の完成
②仏教の台頭
③政治の主導権争いの泥沼化
④天皇と法王の二頭政治
の4つのポイントに分けてそれぞれ解説していきます。
①律令政治の完成
奈良時代に何があったのか?
一つ目は律令政治の踏襲です。
飛鳥時代の天武・持統天皇が構築した律令政治を
ベースに編纂が進められました。
奈良遷都直前に大宝律令が公布され、
さらに大宝律令を踏襲した養老律令が757年に公布されます。
天皇を中心とした政治体制にし、
公地公民制をもとに国から土地(口分田)を分け与えました。
国は民に土地を与え、民は国へ税を納める制度ができました。
しかし統制が厳しく、逃げ出してしまう民が後を絶ちませんでした。
こうして民に開墾した土地の私有化を認める
三世一身法や墾田永年私財法が公布されました。
律令制度は公布された直後からほころびを見せていたのです。
②仏教の台頭
奈良時代に何があったのか?二つ目は仏教の台頭と行基の活躍です。
律令政治による厳しい統制、大陸からは伝染病の襲来。
不安な社会の中人々がすがったのが仏教です。
そのころに現れたのは行基というお坊さんです。
行基は全国各地を回り、土木工事など社会事業をしながら
布教活動をしていきました。
仏教にすがったのは庶民だけではありません。
時の聖武天皇も政情不安から仏教にすがるようになりました。
聖武天皇は仏教によって国を救ってもらいたいと考えました。
そこで全国に国分寺・国分尼寺を創設し、
総本山として東大寺を建立しました。
聖武天皇はそこに大仏を作ろうと考えました。
そこで最初は弾圧していた行基を大仏建立の総監督に招き、
人臣一体となって大仏を作ったのです。
③政治の主導権争いの泥沼化
奈良時代に何があったのか?
三つ目は政治の主導権争いの泥沼化です。
藤原氏のやり方とそれに反発する他の氏族との争いの二つにわけて解説します。
・藤原氏の強引すぎる外戚政治
聖武天皇、光明皇后、孝謙天皇は
藤原氏の強引な策略によりその地位につきました。
もともと
②皇后は皇族出身
③皇太子は男性
という決まりがありました。
ところが藤原氏はこれを捻じ曲げてしまいます
②藤原氏出身の光明子を皇后にする
③女性の阿部内親王を皇太子にする
このやり方は外戚関係にある皇族を帝位につけ、
権力を握ろうとする藤原氏の企みでした。
しかし女性天皇は結婚も出産も許されません。
阿部内親王を皇太子に据えたことで、
今度はその後を次ぐ皇子がいないという
歯がゆい時代を招いてしまったのです。
・藤原氏と反藤原氏
政治の主導権争いも激化しました。
主に天皇家と外戚関係を結び、
自分たちに有利になるやり方を強引に進める藤原氏と
それを阻止する反藤原氏との構図です。
奈良時代初期には長屋王と藤原四兄弟の争いがありました。
この時長屋王は自害に追い込まれます。
このあとも橘諸兄、藤原仲麻呂が台頭してきますが、
藤原氏と反藤原氏が足の引っ張り合いを見せてきます。
二人とも絶大な権力を握ったあと乱を起こして失脚していきました。
④天皇と法王の二頭政治
奈良時代に何があったのか?四つ目は天皇と法王の二頭政治です。
奈良時代後期になると政治はさらに混乱していきます。
聖武天皇の娘・称徳天皇は僧侶の道鏡を寵愛し、
天皇と同格の法王にしてしまいます。
こうして天皇と法王の二頭政治が始まりました。
なぜこんなことになったのか。
称徳天皇が単に道鏡を気に入っただけの話ではないと思います。
自分たちが権力を握りたいために、
生涯独身でいることを自身に強要した藤原氏への反発もあったのです。
称徳天皇は道鏡に天皇の地位を譲ろうとしましたが、
周囲からの反発があり実現しませんでした。
道鏡は称徳天皇が亡くなったあと、
下野に左遷され二頭政治は終わりを告げます。
まとめ
政治が落ち着いたのは称徳天皇から二代後の桓武天皇になってからです。
桓武天皇はこれまでの政治や寺院からのしがらみから
脱却するために平安京への遷都をします。
これによって政治は安定し、時代は平安時代へ突入していくのです