【歴史トリビア】前田慶次の身長は2メートル近く!? 謎に包まれた傾奇者(かぶきもの)の正体とは!!

みなさん、前田慶次はご存じでしょうか。

歴史好きや戦国ファンの方はもちろん、
花の慶次』や「信長の野望」など漫画やゲーム好きの方も
聞いたことがあるのではないでしょうか。

そんな前田慶次ですが、一説によると身長190㎝
2メートル近い大柄な男だったといいます。

実はこれは実証されていない説で実際の身長は約160㎝だったといわれています。

では前田慶次の身長に関する詳細と彼の生涯について
ざっくりとご紹介しますので、最後までお付き合いください!

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●そもそも前田慶次って誰? ―その出自と生涯―

前田慶次(本名 前田利益)は織田信長の家臣であった滝川一益の一族
滝川氏の生まれとされています。

ただし、両親や生年月日、出身地については不明点が多く、
1533年や1541年に生まれたとされていますが、出自は謎に包まれています。

成長すると加賀百万石の大名前田利家でおなじみの
前田家の前田利久の養子になります。

その後1581年頃から利家にも仕え、
1582年の本能寺の変に際しては滝川勢として明智光秀討伐にも
向かったとされています。

しかし1590年頃、利家との不仲もあり前田家を出奔し、
上杉謙信の息子、上杉景勝に仕えたといいます。

その後、関ヶ原の戦いに伴い上杉氏と最上氏の間で発生した
長谷堂城の戦いで功績を挙げました。

関ヶ原戦後も上杉氏に仕え、「愛」の兜でおなじみの直江兼続らとともに
和歌や連歌を読むなど文化活動に勤しんでいたようですが、
1605年大和国(現在の奈良県)でその生涯を閉じました
(*没年も諸説あり 1612年など)。

●なぜ傾奇者? ―前田慶次の性格―

前田慶次は傾奇者と言われますが、そもそも「傾奇者」とは
派手な身なりで非常識な行動をとる者のことを指します。

ではどのような行動が彼を「傾奇者」と言わしめたのでしょうか。
いくつかのエピソードを紹介します。

*前田利家を水風呂に!?

前田慶次は利家にその素行の悪さを何度も注意されていました。

ある時慶次は改心するので許してほしいと利家に願い出て、
利家を自宅に招きます。

そこで当時最高級のおもてなしであったお風呂に入るように勧めますが、
利家に用意された風呂は水風呂でした。

利家は怒りますが、既に慶次は逃げてしまっていました。

処刑されても文句はいえなそうな気もしますが、
利家の懐の深さが伺えますね。

*お坊さんをぶん殴った!?

上杉氏と共に会津にいたころ、酒癖の悪い和尚がいるので
殴ってやりたいというものがいたので、

その和尚に対して「負けた方は一発殴られる」という条件で
囲碁対決を挑みました。

第一局は和尚が勝ったため慶次を軽くたたきますが、
第二局では慶次が勝ち、当初遠慮する慶次に和尚は
「遠慮しなくていい」といったため、顔面を強く殴りつけて逃げたということです。

以上のエピソードなどから前田慶次が傾奇者だったとされています。

慶次の行動をみると、
父親の墓に食事を投げつけるなど「おおうつけ」で知られる
織田信長に似ているような気がしますね。

もし出会っていたら気が合っていたかもしれませんね。

●前田慶次の身長は何センチ? ―慶次2メートル説の真実―

冒頭でも触れましたが、前田慶次は190㎝近い身長があったという説がありますが、
これはウソだとされています。

ではこのウソは果たしてどこから出てきたものなのでしょうか。

実は漫画『花の慶次』にて慶次が「六尺五寸=197㎝」の
武将という設定で登場したため、誤解されて世間で広まったというのが真実です。

たしかに「傾奇者」のエピソードを踏まえると、
高身長な男っていうイメージが浮かんでしまいますね。

では実際は何㎝ほどだったのでしょうか。もっとも信頼できる情報として、
慶次が着用したとされる鎧兜(伝前田慶次所用具足)が
山形県米沢市にある宮坂考古館という博物館に遺されています。

そのサイズは他の一般的な鎧兜と変わらず、
そのため当時の成年男性の平均身長とされる158㎝前後に近い身長であったと
推定されます。

ちなみに本当に2メートル近い身長があったとされる武将も存在しており、
もっとも有名どころでいうと、豊臣秀吉の息子である豊臣秀頼が
2メートル近い巨漢であったといわれており、
近年の大河ドラマでも高身長な秀頼が描かれていました。

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●まとめ

以上「傾奇者」前田慶次の生涯や性格、身長について見てきました。

その出自や生涯には謎めいた部分が多く、
身長についても後世の創作によるイメージが付きまとっていました。

これはすべて前田慶次に関する史料が乏しいことに由来していますが、
史料がないからこそ、傾奇者慶次が人々の想像を掻き立て、
400年以上経った現代においても興味をそそる存在になれたのかもしれません。

しかし、荒れた戦国時代においては彼のように傾奇者でいることこそ
生き延びるための手段なのかもしれません。

人をぶん殴ったりしてはいけませんが、
皆さんも前田慶次のド派手な生きざまを緩やかに参考にしてみてはいかがでしょうか。

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