【新5000円札】津田梅子は何をした人??ナイチンゲールとの共通点は??
皆さんは津田梅子とナイチンゲールが具体的に何をしたのかを知っていますか?
この二人はどちらも地域は違いますが、女性の活躍の場を広げた功績のある人物です。
この記事では女性が活躍することの少なかった時代に
津田梅子とナイチンゲールは何をして有名になったのかを解説いたします!
最後まで読み進めて頂くと、津田梅子とナイチンゲールの名前が
知られている理由に納得して頂けると思いますので、
是非最後までお付き合いください。
Contents
●津田梅子の生涯と功績
*岩倉使節団に参加
津田梅子は岩倉使節団の最年少での参加者です。
津田梅子は岩倉使節団の最年少の参加者として有名です。
津田梅子は東京に津田仙の娘として、1864年に生まれます。
父親の津田仙は明治維新後に農学者として活躍していて、
梅子の思想や行動はこの父親の影響を強く受けたものだと考えていいでしょう。
仙は黒田清隆の女子学生も留学させるべきだという考えに共感し、
僅か6歳の梅子を1871年に実施された岩倉使節団に同行させる決意をします。
アメリカで梅子は女学校で、多くの言語、天文学、物理学を学びました。
*帰国後の津田梅子
梅子は帰国後に日本とアメリカの女性の地位の格差に驚くこととなります。
11年も留学したのに、活躍の場を与えられず、
華族女学校の英語教師として働きますが再びアメリカに留学する事を決意します。
アメリカに渡った梅子は、生物学を学びました。
そして、在学中に「日本婦人米国奨学金制度」を設立しました。
その後も、女性の地位向上の為には学問が必要不可欠であるとい考えを強めた梅子は、
1900年に「女子英学塾」を創立しました。
ここから、本格的な日本の女子教育が始まったのですね。
●ナイチンゲールの生涯と功績
*看護師になる前のナイチンゲール
ナイチンゲールは1820年にイタリアで生まれます。
裕福な家庭だったので、心理学、哲学、数学、経済学、歴史学、
フランス語などの言語を学ぶなど当時の女性では珍しい高等教育を受けました。
1849年、飢餓が蔓延したイギリスの人々の酷い暮らしに心を痛めたナイチンゲールは、
31歳で看護師になる事を決意します。
当時の看護師の仕事は無教養な女性がする仕事だったので、
家族から猛烈な反対を押し切り、ドイツで看護の勉強をしました。
*看護師になった後の功績
看護師になったナイチンゲールは、クリミア戦争中のオスマン帝国の野戦病院で看護をします。
ナイチンゲールはこの病院の看護婦責任者になり、
衛生管理と健康管理を徹底し、夜間の管理も怠りませんでした。
その結果、死亡率を2%にする事に成功しました。
数学などの専門知識があったナイチンゲール独自の視点で兵士の死因を分析したのです。
実は、レーダーチャートもナイチンゲールが生み出したものなんですよ!
そして、帰国後は執筆活動と医療制度改革に携わり、医療の発展に尽力しました。
さらに、ナイチンゲール基金を設立して、ロンドンに看護婦養成学校を創設しました。
●津田梅子とナイチンゲールの女子教育
津田梅子は女性の地位の向上、女性の自立の方法を生涯を通して考え続けました。
梅子が創立した津田塾大学は現在も梅子の理想を引き継いで、
「英語教育」、「少人数教育」、「留学•国際交流」の理念を掲げて活動しています。
ナイチンゲールは自身の専門知識を用いて活躍した人物でしたね。
当時にしては珍しい程の高等教育をうけたナイチンゲールはその知識を医療に応用し、
医療現場に革新をもたらしました。
どちらの女性も高いレベルの教育を幼少期に受けた事によって、
女性教育の重要性を確信したのです。
そして、自身が得た知識を用いて後進の女性たちにも活躍の場をつくりました。
まとめ
今回は津田梅子とナイチンゲールが具体的に何をして有名になったのかを解説しました。
2人とも女性が高等教育を受けることが少ない時代に
専門的な知識を身につけて応用した人物でしたね!
そして、女性が活躍する為の教育の場所を作ってくれています。
現在の私たちは2人のような女子教育の必要性を訴え、
信念を通した人たちによって支えられているのですね!
津田梅子とナイチンゲールの理念を受け継いだ学校や病院があるので、
気になった方は是非行ってみてください。
最後まで、お付き合い頂きありがとうございました。