日本史 1400年代の出来事まとめ テスト対策に最適!

日本史において、1400年代はとても興味深い時代です。

歴史に大きな影響を与える出来事がいくつも起こりました。

室町時代の最盛期を作った日明貿易、6代将軍足利義教の恐怖政治、
一揆の発生、そして応仁の乱がきっかけとなり後の戦国時代につながります。

日本史の転換点になったともいえる時代でしょう。

この記事では1400年の出来事を解説していますので、ぜひご覧ください。

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●日明貿易(勘合貿易)


明(現在の中国)との貿易を日明貿易(勘合貿易)と言います。
人の出入りを自由にしないために、明への入国を証明するものとして勘合を使いました。

*なぜ勘合が使われたのか

当時いた倭寇という海賊に入国されないためです。

倭寇は、明や朝鮮半島の近くで、ものを奪ったり、
他の国に紛れて勝手に貿易をしていました。

そこで明は倭寇に入国されないために、他の国に朝貢を求めました。

朝貢とは、明に認められた国のリーダーが、
明の皇帝に貢物を持って挨拶しにいくことです。

勝手に知らない国の人が入らないよう、
認めた国のリーダーだけに入国を証明するものを持たせました

その証明するものが勘合です。

*日明貿易の仕組み


日明貿易では、明とは対等の関係ではなく、臣下の礼をとる形になりました。
つまり日本は明の属国(子分)になっていたわけです。

子分になって頭をぺこぺこさげてもいいのと思いますよね。
実は明から朝貢のお礼として、貢物の何倍にもなる豪華なものをもらえていたのです。

日本としては「頭を下げさえすれば、たくさん褒美がもらえるからラッキー」となります。
このような貿易の利益もあり、室町幕府の最盛期を作れていました。

●足利義教の恐怖政治により起こった戦乱

6代将軍の足利義教は「万人恐怖」と恐れられるほどの独裁的で恐ろしい政治を行いました。
その結果鎌倉公方や守護大名が不満を抱き、戦乱に発展し、幕府とのバランスが崩れていきます。

*義教が将軍になった経緯

6代将軍の足利義教は、なんとくじ引きで決まった将軍でした。
「そんな決め方でいいのかよ!」と思いますよね笑

前の将軍が次の将軍を決めないまま亡くなったため、幕府で話し合った結果、
くじ引きで決めることにしました。

結果将軍は義持になりますが、この「くじ引きで決まった」ことが、
歴史に大きく影響を与えていきます。

*義教の万人恐怖

義教はくじ引きで選ばれたため、人望もあまりなかったようです。
「くじ引き将軍」とバカにされたり、支持してくれる家臣もいませんでした。

その結果自身の権力を強化するために、自分の言うことを聞かない守護大名や寺社勢力を
容赦なく弾圧しました。

確かに他の大名たちにも従ってもらわないと困るので、
力で押さえ込むしかなかったのかもしれないですね。

*永享の乱

そんな義教に反感を持ったのは、鎌倉公方の足利持氏です。
鎌倉公方とは、関東地方辺りの統治を任されているミニ幕府のようなものです。

持氏は、くじ引きで将軍になった義教を「なんであいつが急に将軍をやってるんだ!」と
不満を持ち、ついには反乱を起こします。

これを永享の乱(1438)と言います。
この反乱は、義教によって鎮圧されました。

*嘉吉の乱

各地の守護大名は義教の政治に恐怖に怯えていました。

言うことを聞かないと殺害されたり、領地を没収されるため、
「ヤバい、次は自分の番かもしれない」と思うようになります。

そんな中、赤松満祐という大名が、なんと義持を暗殺したのです。

「どうせ殺されるのなら、先に殺してしまえ!」と
自宅で宴会をしようと義教を誘い、殺害しました。

さすがに宴会の席で暗殺だなんて、恐ろしすぎます・・・
これを嘉吉の乱(1441)と言います。

その後赤松氏は幕府軍によって討伐されます。

*義教の時代以降どうなったのか

6代将軍義教までは、地方の守護(幕府から地方の統治を任命された人)と
うまくパワーバランスをとれていました。

しかし義教が暗殺されてからは、幕府の権威がなくなっていき、お飾り状態になっていきます。
力を持った守護大名の発言力が強くなり、政治でも中心になりました

●惣の存在と一揆の発生

1400年代では一揆がブームとなり、各地で起こります。
一揆のベースになったのが、惣(惣村)という自治組織です。
民衆が税や飢饉で苦しい生活を強いられた中で、幕府や大名に対抗しようと集団蜂起しました。

*惣(惣村)とは

この頃の民衆は、重い税や飢饉(お米が全然とれないこと)があり、
苦しい生活を強いられました。

苦しい人たちで集まるようになり「俺らでチームを組んで、俺らのルールでやっていこうぜ
という自治組織を作るようになっていきました。

この自治組織を惣(惣村)といいます。

*一揆とは

一揆とは、集団で団結して目的を達成しようとすることを言います。
一揆=反乱のイメージがあるかもしれませんが、必ずしもそうではありません。

始めは主に借金の帳消し(徳政)を求めたストライキが行われました。
この一揆のベースになったのが惣です。

この頃から、民衆が一つにまとまりだしたことで、
幕府や大名といった上の立場をおびやかすようになります。

そして応仁の乱以降、一揆がついにはにもなります。

戦乱となった一揆として、山城の国一揆(1485)加賀一向一揆(1488)があります。

ついに、実力で守護を国から追い出したり、攻め滅ぼすようになりました。
もうパワーバランスが崩れているのがわかります。

●応仁の乱

1400年代の最も大きな出来事応仁の乱です。

応仁の乱は、有力な守護大名と将軍家の後継者争いから、
他の大名をも巻き込んだ争いのことです。

結果幕府の権威は大きく失われました。
守護大名の力も落ち、下剋上が起こり、戦国時代へとつながっていきます。

*応仁の乱とは

これまでに各地で起こった乱や一揆により、将軍の権力が衰えていました。
その中で、足利将軍と守護大名の畠山氏で後継者争いがおきます。

畠山氏以外にも大名家で後継者争いが行われており、決着をつけるために、
東軍と西軍に分かれて争いを始めました。

この頃は単独相続のため、長男以外には土地が分け与えられません。
次男、三男にとって、土地を得るには長男に勝つしかありません。
このような相続を得るためでもある私利私欲の争いが11年も行われました。

*応仁の乱の後どうなったか
乱の後は、長らく戦をしていた守護大名が力を落とします。

その代わりに守護代が地方の統治をしていたため、
戦に巻き込まれず力を蓄えていたのです。

そして守護代の方が力が強くなり、守護に変わって国の実権を握っていきます

この下の身分が上の身分を実力で上回ることを下剋上と言います。
この下剋上の風潮から、いよいよ戦国時代に移っていきます。

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まとめ

いかがだったでしょうか。1400年の出来事が、
その後の日本史に大きく影響を与えたというのがおわかりいただけたでしょうか。

今後の日本史をおさえる上でも、この時代をしっかり理解することが大事になります。

室町幕府はどのように繁栄し、そこからなぜ衰退したのか、
なぜ守護大名が台頭したのかを理解することが、その後の日本史をおさえる上で重要です。

この記事が皆さんの日本史の理解と興味を深める記事になれば幸いです

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