安土城は5層7重の巨大な城だった!織田信長が安土城を建てた意味とは?

安土城とは、誰もが知っている戦国武将・織田信長が建てた城です。

安土城は、信長の死後に火事で焼けてしまい現存はしていませんが、
残されたいくつかの文献から、
安土城は当時の最先端技術を駆使して建てられた5層7重もの巨大で美しい城だったといわれています。

しかし、なぜ織田信長はこんなに大きくて豪華な城を建てたのでしょうか?

一般的には「信長の権力の象徴」として建てられたといわれていますが、
別の意味もあったのではないかとも考えられています。

そこで今回は、
安土城が建てられた意味や安土城が与えた影響などについて紹介していきましょう。

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●安土城の「5層7重」とはどういう意味?

安土城は「5層7重」といわれていますが、この「」や「」とはどういう意味なのでしょうか?

「層」や「重」は日本のお城の階層の数え方で、「層」は外から見た屋根の数
「重」は地下も含めた床の数のことを指しています。

安土城は、外から見た屋根の数が5つ、中が地上6階地下1階の7階ありました。

これは、当時人が住むことができる日本一高い木造建造物で、
石垣も含めると約50メートルもの高さになるとされています。

これは現代の15階建てのマンションくらいの高さで、さらに標高198メートルの安土山山頂に建てられていたので、
当時の人たちはその巨大なお城を見て美しさとともに恐ろしさまで感じたのではないでしょうか。

●5層7重の巨大な安土城は権力の象徴として作られた

織田信長はどうして5層7重もの大きな安土城を建てたのでしょうか?
それは、織田信長の権力を象徴するためだったと考えられています。

当時の城には、城主やその家族、家来たちが住むための住居としてだけでなく、
敵からの攻撃を防ぎ、装備を整えて敵を攻撃するための準備をする要塞としての役割がありました。

そのため、城の周りに堀を作ったり簡単に登れない石垣を作ったり、
門から城までの道を迷路のように作ったりして敵からの攻撃を防ぎ、
城の壁に小さな穴を空けてそこから弓矢や石で攻撃したりできるような造りになっていました。

しかし、安土城は戦のための要塞というよりも、
多くの人に見せるための奈良時代のお寺のような派手で豪華な造りになっていたと伝えられています。

安土城は現在残っていないため、実際にはどんな城だったのかははっきりとしていませんが、
文献などから5層7重の奈良時代の天平建築のような八角形の朱塗りの柱に漆塗りの壁、

金の屋根の天主を持った豪華絢爛な巨大建造物であったとされ、
その大きさと豪華さに、当時来日中で安土城に招待された
キリスト教宣教師のルイス・フロイスは著書の「日本史」の中で、
安土城の様子を細かく書き記し褒め称えています。

このように巨大で豪華な城にしたのは、織田信長が天下人としての富と権力を持っていることを
世の中に知らしめ、敵となる武将たちを威嚇するためだったと考えられています。

●安土城は信長が平和な余生を過ごすために建てられた

安土城は信長が隠居した後の住居として建てられたお城という説もあります。

信長は、「桶狭間の戦い」や「姉川の戦い」で勝利し、
有力な武将たちを次々と倒していき、1573年(天正元年)には
15将軍・足利義昭を京から追放して室町幕府をも倒しました。

そして信長は、拠点としていた岐阜城を家督と共に息子の信忠に譲り、
隠居を過ごすための城として安土城を建てたといわれています。

天下を統一し、平和な世の中を作りたいと願っていた信長は、
豪華なお城を建てることで織田家が政治の中心にあることを知らしめるとともに、

戦国の世が終わった後の城は戦いのためではなく、
みんなが集まって楽しみ安らぐ場所でありたいという思いも伝えたかったのではないでしょうか。

実際に信長は、安土城に武将や文化人を招待しただけでなく、
一般の人たちにも有料で公開していました。

若いころから頻繁に城下で町の人たちと交流をしてきた信長は、
安土城の中で町の人たちと一緒に平和で楽しい時間を過ごしたかったのかもしれませんね。

また、注目したいのは安土城のシンボルともいえる物見櫓(ものみやぐら)です。

物見櫓とは高い場所から敵の動向を見るための見張り台ですが、
安土城の物見櫓の中は壁に金箔が張られ、加納永徳という当時最も活躍していた画家に書かせた襖絵で

ぐるりと囲まれた畳敷きの部屋があり、
とても見張り台のために作られたものとは考えられない造りになっていました。

信長自身がそこで生活をしていたともいわれる物見櫓を「天主」と呼んでいました。

「天主」とはカトリック教の神であるデウス(ゼウス)を指す言葉で、

信長は自分を神に見立て物見櫓を神が住む場所という意味として
「天主」と呼ぶようになったという説があります。

しかし、安土城の物見櫓は八角形のお堂のような形をしていて、
これは、奈良の法隆寺にある夢殿や興福寺にある西円堂などの八角堂によく似ています。

信長は乱世を生き残った武将です。

生き残るということは、
代わりに多くの人達の命を奪ったということでもあります。

信長は残虐だったといわれていますが、
当時誰も実現できなかった平和な世の中を作ろうとした人でもありました。

ですから、安土城に八角堂のような物見櫓を作り、
それを「天主」と呼んだのは、戦で命を奪われた人たちを弔うためという意味もあったのではないかと私は考えます。

●なぜ安土城が安土山に建てられたの?

安土山が選ばれたのは、立地が良かったからです。

安土という町は、琵琶湖の側にあり水運や琵琶湖で獲れる魚などで経済的に潤っていた場所であり、
船で琵琶湖を渡れば半日ほどで京都に行けるような場所でした。

また、安土は京都と北陸を繋ぐ街道の重要な場所で陸の交通の便も良かったため、
信長は琵琶湖の東岸にある安土山に城を建てることを決めたといわれています。

その後、信長は安土城を中心に城下町を作り、
明智光秀や羽柴秀吉ら家臣たちも城下町に住まわせて守りも固めて、発展都市を築いていきました。

●5層7重の安土城はその後の城建築のお手本となった

信長が建てた安土城は、これまでとは違う建築様式のお城で、
その後の城建築に大きな影響を与えました。

安土城は、当時の一流職人たちを集め、
5年間もの時間をかけて作られた城です。

当時の最先端技術を注ぎ込まれた安土城は、
日本初のものを数多く使われた城でもありました。

安土城は、日本で初めて本格的な天主を持った城で、
5層7重もの高さの人が住める建物というのも日本初、

そして、山全体を石垣で覆い、
その上に城を建てるという造り方も日本で初めてのものです。

それまで建てられた城は、天主を持たず、土を盛り上げたり切り落としたりした山の上に作られ、
石垣は無かったりあっても城の一部分だけといった造りでした。

安土城の石垣は、穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる一流の石工職人集団
技術を駆使して作り上げたものです。

また、屋根瓦を使った建築物も安土城が日本初だとされています。

それまで屋根瓦はお寺にだけに使われていましたが、
信長は瓦職人たちに城専用の屋根瓦を作らせ、これを安土城に使用しました。

これらの技術は、豊臣秀吉が大阪城を建てる時に使い、
江戸時代以降の城建築にも受け継がれていったのです。

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●まとめ

5層7重の巨大で美しい安土城は、
築城後わずか6年で原因不明の火事により焼失してしまいました。

しかし、その技術は後年に受け継がれ、城は人が快適に住み、
国のシンボルとなる建物へと変わっていきました。

これは、織田信長が望んでいた城の有り方だったのかもしれません。
近年では文献をもとに模型やCGで再現されていますし、研究も進められているので、
そう遠くない未来に復元された安土城を見ることができるかも知れませんね。

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