【豆知識】戦国時代の3大美女の生涯 ~乱世を生きた美しき女たちの人生~

今も昔も、美しい女性は多くの人を惹きつけます。

しかし、美しさの基準は、その時代や文化的背景によって大きく異なりますし、
外見だけでなく、心が清らかなこと、教養があること、忠誠心を持っていること、

なども美女の判断基準として用いられることもありますから、
ただ単に見た目が良いというだけでは、

歴史に名を遺す美女になることはできないでしょう。

このブログでは、筆者が選んだ「戦国時代の3大美女」が
どのような人生を送ったのかをみていこうと思います。

最後までお付き合いいただければ幸いです。

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●戦国時代の3大美女は誰?

まず、筆者が選んだ「戦国時代3大美女」を紹介します。

・お市の方
・淀殿
・細川ガラシャ

この3人を選んだ理由は、ただ美女と言われていただけでなく、
波乱に満ちた人生を送った彼女たちの生き方が、かっこよくて好きだからです。

では、彼女たちの生涯をひとりずつみていきましょう。

●お市の方(おいちのかた)


お市の方は、戦国武将のカリスマ・織田信長の妹です。

‟天下一の美女“、‟戦国一の美女”との誉れが高く、
信長の部下であった豊臣秀吉も、お市の方に憧れていたそうです。

織田家と浅井家の同盟締結のため、兄の信長は、お市の方を浅井長政に嫁がせます。

政略結婚ではあったものの、2人の夫婦仲はよく、茶々(ちゃちゃ、豊臣秀吉の側室)、
初(はつ、京極高次の正室)、江(ごう、徳川秀忠の継室)という3人の娘を授かりました。

この娘たちもまた、母・お市の方の血を受け継いだ美女だったといわれています。

しかし、浅井家と織田家の友好関係が断絶し、
夫の長政が兄の信長を裏切ります。

姉川の戦い」、続く「一乗谷城の戦い」で信長に敗れた長政は、
父の久政とともに小谷城で自害しますが、
この時、お市の方は3人の娘たちとともに織田家に引き取られます。

「本能寺の変」で、明智光秀に裏切られた兄の信長が自害した後、
織田家の跡継ぎを決めるための「清州会議」が開かれます。

その会議において、織田家の後継ぎが三法師(のちの秀信)と決まっただけなく、
お市の方の処遇も話し合われ、お市の方は柴田勝家と再婚することになりました。

しかし、ときは戦国時代、
もともと仲が悪かったといわれていた勝家と秀吉の対立が激しくなり、
賤ヶ岳の合戦」において、勝家は秀吉に敗れてしまいます。

敗戦し、自分の城(北ノ庄城)へ帰ってきた勝家は、
お市の方に3人の娘とともに城から逃げるように伝えます。

しかしお市の方は娘たちだけを逃がし、
自らは夫の勝家とともに自害し、波乱に満ちたその生涯を終えました。

両親の死後、3人の娘たちは豊臣秀吉に保護され、
長女であった茶々は秀吉の側室となります(のちの淀殿)。

お市の方に憧れていた秀吉が、
三姉妹の中でも母の面影を最も受け継いだとされる茶々を妻として迎えたのは頷けます。

●茶々/淀殿(ちゃちゃ/よどどの)


上述したお市の方の娘で、秀吉の側室となった女性です。
母親の血を多分に受け継いだ美貌の持ち主だったといわれています。

実父(浅井長政)は織田信長に、母(お市の方)と
継父(柴田勝家)は豊臣秀吉によって自害に追い込まれた、という過去がありながらも、
両親の仇である豊臣秀吉の側室となります。

このとき2人は20歳以上離れており、親子ほどの歳の差でした。

大の女好きで20人以上もの側室を抱えていたといわれる秀吉でしたが、
子宝には恵まれませんでした。

そんな中で唯一、秀吉の子を身籠ったのが、この茶々でした。

これを喜んだ秀吉が茶々に山城淀城を与えたことから、
茶々は淀殿と呼ばれるようになります。

残念ながら、待望の跡取りとして生まれた鶴松は幼くして病死してしまいます。

しかしその数年後に、
茶々はまたしても男の子、秀頼を出産します。

まだ秀頼が幼かった頃に、夫の秀吉が死んでしまいます。

秀吉の正室であったねねは高台院として出家しますが、
淀殿は秀頼の後見人となり、豊臣家の実権を握るようになりました。

しかし、ときは戦国時代、秀吉の死後、徳川家康がその存在感を高め、
石田三成らと対立を深めていくなど、政情はとても不安定でした。

天下分け目の「関ヶ原の戦い」が起こった際、
淀殿は徳川側にも石田側にも味方せず、中立の立場をとりました。

そして徳川側が勝利すると、淀殿は家康を大坂城へ招き、労をねぎらいます。

その際、秀頼の父親代わりとなることを家康に依頼し、家康もこれを快諾します。

ところが、家康は豊臣家の領地を削減し、
自身は征夷大将軍となり、江戸幕府を開きます。

重ねて、家康は豊臣秀頼に臣下の礼を取るように求めました。
この要求に淀殿は激怒し、徳川家と豊臣家の対立が決定的となります。

そしてついに「大坂の陣」が勃発。淀殿は自ら武具を着用し、
臣下の武士らを鼓舞していたといわれています。

冬の陣ではなんとか奮戦したものの、夏の陣において大坂城は落城。
淀殿は、息子の秀頼や家臣らと共に自害し、この世を去りました。

●細川ガラシャ


「本能寺の変」の首謀者・明智光秀の娘で、
元の名は玉(たま、または珠)といいます。

戦国随一の美女“と噂されていたそうです。

父・明智光秀の主君であった織田信長の命により、細川忠興と結婚します。

細川忠興も美男だったとされており、
2人は美男美女夫婦としてお似合いだったことでしょう。子宝にも恵まれました。

しかし、そんな2人の夫婦生活は、父・明智光秀が起こした「本能寺の変」で
大きく変わってしまいます。

主君・織田信長に謀反を働き、自害に追いやった父の光秀は、
その後、「山崎の戦」で討たれます。

謀反を起こした一族として明智家は誅殺され、本来であれば玉もその対象でした。

しかし、そうならなかったのは、夫の細川忠興の愛ゆえです。

忠興は、愛する玉を旧織田家からの粛清から守るため、
あえて離縁し、山奥に幽閉しました。

幽閉生活は2年間続きましたが、
信長の後に実権を握った豊臣秀吉によって赦され、玉は細川家に戻されました。

幽閉生活は解かれたものの、‟謀反人の娘“というレッテルは貼られたままであったため、
玉は常に周囲から監視され、行動も制限されていました。

そんな息苦しい生活の中で、彼女の心の支えとなったのが、
キリスト教だったのです。

しかし当時は、キリスト教への弾圧が強まってきていたこともあり、
玉はキリスト教への信仰心を夫・忠興に明かしてはいませんでした。

密かに信仰心を育み続けた玉は、
夫の不在中ついに洗礼を受け、‟ガラシャ“という洗礼名を与えられました。

ガラシャとは、ラテン語で‟神の恵み”という意味を表します。

妻が洗礼を受けたことを知った忠興は激怒し、
棄教させようとしましたが、ガラシャがその信仰心を捨てることは、
生涯ありませんでした。

豊臣秀吉の死後、豊臣派と徳川派の対立が激化します。夫の忠興は徳川派につき、
上杉征伐へと向かいました。

その隙を狙い、豊臣派であった石田三成が、
ガラシャを人質として捉えようと細川家の屋敷を取り囲みました。

忠興は常日頃から、自分が屋敷を離れる際、
家臣たちに「妻の名誉に危険が生じることがあったならば、
まずは妻を殺して、(家臣)みな切腹して共に死ぬべし」と命じていたと言われています。

ガラシャは夫の言いつけを守り、敵の人質になるよりも死ぬことを選びます。

しかしキリスト教では自殺が禁じられているため、
ガラシャは家臣に胸を突かせました。

夫の命令と自らの信仰心、どちらも守り抜いたうえで、
壮絶な人生の最後を迎えました。


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●まとめ

お市の方、淀殿、細川ガラシャ、筆者が選んだ戦国時代3大美女に共通しているのは、
ただ美しいと言われていただけでなく、悲しくも、みな自害していること。

これは、戦国時代を生きた美女たちは、見た目の美しさだけではなく、
夫への愛や忠義心の強さ、精神的な強さ、
そして誇り高い心を持ち合わせていた
ことを物語っています。

現代では、夫の言いつけを守って自ら命を絶つなどということは考えられませんが、
それほどに強い絆や信念で結ばれた関係というもの、
それはそれで幸せだったのかもしれません。

ここで述べた3人だけでなく、
他にもたくさんの女性がそれぞれに生きた記録が残されていますので、
ご自身の中での戦国3大美女を考えてみられるのも楽しいと思います。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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