【歴史トリビア】飛鳥時代初の人口調査と人口構造の変化!!実は、、、

バタフライエフェクト。

小さな出来事がやがて大きな効果を生み出してしまうという意味です。

その小さな出来事と後に起こる大きな出来事は直接の因果関係はありません。

日本史上のバタフライエフェクトといえば白村江の戦いが挙げられます。

日本が初めて介入した外国の戦争
のちに飛鳥時代の人口調査を始めるきっかけになり、
また人口構造をも変えてしまうのです。

戦いの指揮をとったのは推古天皇に次ぐ二人目の女帝・斉明天皇。

彼女はまさか自分のしたことが思わぬ効果を
生んでしまったと思っていないでしょう。

ここでは白村江の戦いを見ながら、
その結果起こったバタフライエフェクトを二つ紹介していきたいと思います


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・飛鳥時代の人口はいったいどのくらい?

*飛鳥時代の人口はおよそ450万人〜650万人

では、飛鳥時代の日本の人口はいったいどのくらいだったのでしょうか?

当時の記録や遺跡の状況から判断しておおよそ450万人〜650万人と推定されています。

飛鳥時代の人口の記録として天智天皇9年(670年)に
作成された「庚午年籍」があります。

これは初の全国にわたる戸籍調査でした。

もっとも人口を調べるのが主な目的ではなく、
身分や姓を調査し、戸数の把握が行われていました。

*白村江の戦いをきっかけに戸籍の作成が進められた

ではどうして戸数を把握することになったのでしょう?

それは663年にあった白村江の戦いに
日本・百済連合軍が大敗してしまったからなのです。

朝鮮半島で行われたこの戦いに敗れた後、
唐や新羅が攻めてくるかもしれないと天智天皇は考えました。

そこで防衛のための兵を集めるため、
徴兵可能な男性のリスト作成が必要になったからです。

次では少し遡ってその白村江の戦いについて紹介していきます。

・女帝が本腰を入れた白村江の戦い

*女帝・斉明天皇が百済に援軍を派遣した

660年日本と友好関係にあった朝鮮半島の国、
百済が唐と新羅の連合軍に攻められ、滅亡

日本は百済復興の為に日本にいた百済の王子・豊璋を返し、
2万7000人余りの援軍を送りました。

当時の日本のトップは斉明天皇

推古天皇に次ぐ二人目の女帝で、天智天皇・天武天皇の母であり、
持統天皇の祖母にあたります。

斉明天皇は必死だったのです。

友好関係にある百済がもし滅亡してしまったら、
4世紀から続いていた朝鮮半島の拠点を失うことになってしまうからです。

*戦いの前に女帝は崩御 朝鮮半島の拠点も失ってしまう

そこで女帝は朝廷ごと九州に移動させることにしました。

飛鳥から難波に出て船に乗り、瀬戸内海を西に西に進みます。

そして九州に建てた朝倉宮から直接指揮をとろうとしました。
この戦いに賭ける女帝の本気度が伝わってきそうです。

しかし、遠征軍が出発する前の661年、
斉明天皇は九州についてわずか2か月ほどで亡くなってしまいます。

天皇の崩御により戦いにも暗雲が立ち込めます。

結局大国・唐に敵うはずもなく結果は大敗。
日本は百済を失い、女帝を亡くしてしまいました

・白村江の戦いがもたらした二つのバタフライエフェクト

*敗戦がもたらした効果①戸籍の作成

白村江の敗戦は日本に2つの思わぬ結果を生みました。

一つは戸籍の作成です。

白村江の戦いで敗戦したあと、
中大兄皇子は新羅と唐が日本に攻めてくるかもしれないと本気で考えました。

そこで防衛のために水城を建設しました。

水城は高さ10メートル、長さ1.2キロにわたる城壁です。

博多湾から上陸した敵が福岡平野に入るのを遮断する目的でした。

また、九州沿岸を防衛するために防人(さきもり)を置きました。

そして防人を急ピッチで集める必要があったため、
全国規模の戸籍・庚午年籍の作成が必要になったのです。

そしてこの戸籍は租・庸・調の税を徴収するためにも便利だということに気が付きます。

庚午年籍を引き継ぐように庚寅年籍が作られ、
6年後ごとに作り直すルールも定められました。

この戸籍の作成により、
おおまかではあるものの飛鳥時代の人口を知ることができるのです。

*敗戦がもたらした効果②百済人の亡命により飛鳥時代の人口構造が変わる

もう一つは多くの百済人が日本に亡命してきたことで、
知識や技術が飛躍的に進化したことです。

百済の王子・善光が日本に亡命し、彼を頼って多くの百済人が日本にやってきました

その数は2000人とも3000人、あるいは数万人とも言われています。

飛鳥時代の人口が450万人〜650万人ほどでしたので、
受け入れる余裕はありました。

百済から亡命してきた人たちは土地を与えられ、集団で開墾につとめました。

持統天皇は善光に「百済王(くだらこにきし)」の姓を与えました。

官人として登用されたケースが多く、
文化人、知識人として尊敬される立場の人が多かったようです。

亡命百済人の集落は各地にあり、百済人が増えたことにより
飛鳥時代の人口構造を大きく変えることとなりました。

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・まとめ 女帝のさらなるバタフライエフェクト?

斉明天皇が白村江の戦いに援軍を送ったところ、
戸籍が作成され、知識や技術が進化するという思わぬ結果になりました。

人口調査が行われ、飛鳥時代の人口構造が変わるなんて
女帝もきっとびっくりしていることでしょう。

ところで白村江の戦いで戦った唐のトップは誰だと思いますか?

実はあの則天武后なのです。

歴代の中国国家では女性が皇帝に就くことはできず、
夫・高宗に代わりに指揮をとっていました。

自分は皇帝の代理なのに、
対戦相手の日本は女帝の斉明天皇が直接指揮をとっているというのに
衝撃を受けたのかもしれません。

しかも日本を調べればその前にも推古天皇という女帝がいたという歴史的事実。
則天武后が斉明天皇の存在に刺激を受けたという記録はありません。

しかし、白村江の戦いのあと、
690年に則天武后は中国史上唯一の女帝として即位します。

これもまた斉明天皇が起こしたバタフライエフェクトなのかもしれません。

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