【歴史トリビア】飛鳥時代と奈良時代の3つの違い 持統天皇の思惑とは??

奈良県にある明日香村奈良市

この二つの地にかつて都がおかれ、歴代の天皇が住んでいました。

日本史上では奈良県内の地名をとって飛鳥時代、
奈良時代と二つの時代区分がされています。

飛鳥時代と奈良時代の違いは何だったのでしょうか。

ここでは3つの事例を上げ、
二つの時代の違いと比べていきたいと思います。

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・律令制度の整備

 

*律令制度ができる前は

飛鳥時代と奈良時代の違いとして最初に挙げられるのが律令の整備です。
律は刑法、令はそれ以外の法を意味します。

飛鳥時代が始まった頃、推古天皇、厩戸皇子、蘇我馬子によって十七条の憲法が作られていました。
しかし、これは法というより貴族や役人たちへの道徳的規範のようなものでした。

*天武天皇による律令制定作業

壬申の乱ののち即位した天武天皇は法の整備をすすめようと考え、
681年に律令を制定するように命じます。

しかし、天武天皇は完成前に亡くなってしまい、
後を引き継いだ皇后の持統天皇によって689年に公布されました。

これが飛鳥浄御原令です。

法の公布を急いでいたため、
刑法のない「令」だけで完全なものとはいえませんでした。

*奈良時代になって本格的に始動した律令

その後も律令の編集作業は続けられ、701年大宝律令になって本格的に始動しました。

内容はほとんど中国・唐の律令を参考にし、
日本の実情に合わせて編集したものと思われます。

天武天皇の発案から本格的な律令の公布まで20年近くかかりました。

公布されたのは天武天皇の息子の妻であり、
持統天皇の妹である元明天皇の代です。

唐のものを参考にしたとはいえ、
土台から作り上げていくのは大変な作業だったと思います。

・都市機能の整備

*都が整備される前は天皇の代が変わるごとに場所が変わっていた

飛鳥時代と奈良時代の違いとして次に上げられるのが都の整備です。

古墳時代、飛鳥時代まで天皇が代替わりするたびに宮殿を建て、場所を変えていました

日本古来のケガレの観念があり、前の天皇にあった嫌な出来事を
次の天皇が引き継がないようにするためだったのでしょう。

日本の神道のベースにある考え方だと思います。

*新しい都の整備は宗教観すら変える意識改革でもあった

飛鳥時代までは当時の宗教観の影響で天皇が代替わりするごとに場所を変え、宮を建てていました。

天皇の在位期間はそれほど長くなく、10年から20年で代替わりしてしまいます。
そのたびに宮を新しく建てなければなりません。

これでは費用力もかかってしまいます。

そこで天皇が代わっても機能し続ける都、
それも朝鮮や唐と渡り合うためにも計画的に都市を造る必要がでてきたのです。

都の整備は社会制度の改革だけでなく、それまでの宗教観すら変える意識改革でもありました。

この意識改革は、近代国家に向けて東京に遷都し、
首都機能を整備していった明治維新の頃にとてもよく似ていると思います。

そうです。この頃の日本も唐に並ぶ近代国家になるために新しい都の整備が必要だったのです。

*新しい都・藤原京は3代の天皇によって運営された

藤原京の造営は天武天皇の頃に案が出され、持統天皇の代になって本格的に運営されました。

唐の都・西安を参考に碁盤の目のような道路が造られ、
中心に天皇の住まいと役所がおかれました。

藤原京は日本で初めての計画都市です。

残念ながらわずか16年ほどで奈良の平城京へ遷都されてしまいます。

しかし、持統・文武・元明の3代の天皇の御代にわたって
代替わりしても使われたことのほうが意味が大きいのです。

・藤原氏の台頭

*中臣鎌足が藤原氏の始祖

飛鳥時代と奈良時代の違いとして最後に上げられるのが藤原氏の台頭です。

645年の乙巳の変で政治を独り占めしていた蘇我氏の本家が滅亡してから、
中大兄皇子とともに天皇を中心とした政権改革に動いていたのが中臣鎌足でした。

天智天皇となった中大兄皇子は鎌足が亡くなる直前に藤原の姓を授けます。

この鎌足の子孫が藤原氏です。

この時、次男の不比等はまだ11歳。

天智天皇の弟・天武天皇になってからは皇后と皇子たちによる皇親政治になり、
不比等の出る幕はありませんでした。

*鎌足の息子・不比等から藤原氏が活躍しはじめる

不比等が活躍を始めるのは持統天皇の代になってからです。
ここからが藤原氏が本格的に活動を始めたといってもいいでしょう。

まず始めたのは外戚政治です。

持統天皇の孫・文武天皇のもとへ娘の宮子を入内させ、首皇子が生まれました。

この首皇子はのちに聖武天皇として即位します。

皇族の母を持つ皇子や皇女が即位するのが当時の通例だったので、
藤原氏の母をもつ首皇子の即位は異例中の異例だったのです。

これは不比等だけでなく自分の子孫を皇位をつなげていきたい持統天皇の思惑もあったと思います。、

*藤原氏と反藤原氏が権力争いを繰り返した奈良時代

しかし、首皇子のもとに不比等の娘・光明子が入内した頃から
天皇家を藤原氏の血で固めようとする動きが見えてきます。

そしてそれを阻止しようとする長屋王などの反藤原氏。

飛鳥時代は蘇我氏の独裁、そして皇族中心の政治でした。

しかし、奈良時代には藤原氏と反藤原氏の権力争いがあり、
その間に挟まれた天皇家の図式に代わっていくのです。

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・まとめ

飛鳥時代と奈良時代の違いについて3つ上げましたが、
その3つすべてに登場する人物がいることに気が付かれたと思います。

そう持統天皇です。

持統天皇は天武天皇の皇后だった頃、夫と共同統治を行い律令の制定、
計画的な都の造営などの案を次々と出していきました。

二人は夫婦というより良きビジネスパートナーだったのです。
天武天皇は途中で亡くなってしまいます。

そのあと持統天皇が即位しますが、
夫と共同統治していたころからの案を引き継ぎ、実現させたことがまずすごいのです。

現代風にいうと新憲法の公布と首都機能移転といったところでしょう。

天武天皇と持統天皇が国づくりについて考えたのが飛鳥時代。

そしてその案を実際に動かし、
二人の子孫に藤原氏が絡んでいったのが奈良時代だといえると思います。

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