【歴史トリビア】織田信長と濃姫、実は離縁してなかった?謎に満ちた濃姫の生涯!

織田信長と濃姫は離縁していません

歴史上名高いカップルである織田信長と濃姫夫婦。
二人は離縁したのではないか?と思う方が多いようです。

なぜでしょうか?

それは織田信長と結婚した後の濃姫の記録がなく、
さながら歴史から突然姿を消したかのようになっているからです。

離縁したと考えれば濃姫の結婚後が判らないのも納得しますよね?
でも織田信長と濃姫が離縁したことを裏付ける記録は何もありません。

つまり二人は離縁していないのです。

濃姫はどのような人生を生きたのでしょう?

濃姫の生涯について順を追って検証したいと思います。

最後まで読み進めるとミステリアスな濃姫の人生が身近に迫ってきますので、
是非お付き合いくださいね。

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●マムシの娘として生まれた濃姫

濃姫はどんな人だったのでしょう?

父親の斎藤道三は食わせ者だったことから「マムシの道三」と呼ばれていました。

その道三が織田信長に嫁ぐ前の濃姫に、
「信長が噂通りのうつけならこの短刀で殺すがいい」
と短刀を渡し、

「いいえ、返す刀で父上を殺すかもしれませんよ」
と答えたという話があります。

戦国の女性らしい、しっかりした覚悟を持っていたことを伺わせるエピソードですね!

●濃姫は生さぬ仲の子を育てた?

当時の文献によると、濃姫は織田信長の子を生んだが女の子だったため、
側室の生駒吉乃が生んだ信忠や信雄を育てたという説があります。

正室が男の子に恵まれなかったので側室の生んだ子を引き取って
育てることはよくあったので、濃姫が嫡男信忠の育ての母になったというのは十分考えられます。

子にとっては正室に育てられることで後継ぎと認めてもらえるし、
正室にとっては男の子を育てることで正室の面目が立ち、Win-Winの関係だったわけですね!

戦国時代が舞台のテレビドラマでは、正室が側室に追いやられ、
憂き目を見るシーンが出てきますが、実際はそんなことはありませんでした。

特に戦国時代は、正室と側室は明確に格の違いがあったのです。

実家の斎藤家が没落しても、織田信長は濃姫を正室として遇し、
信忠らを育てさせたことは十分あり得ます。

●濃姫は織田信長と共に本能寺の変で死んだ?

本能寺の変を描いた浮世絵に女性が出てくることから、この女性が濃姫と目され、
織田信長と共に死んだのではないかという説があります。

またこの時濃姫の髪を家臣が持ち帰り、遺髪塚を作ったとも伝えられます。

織田信長と華々しい最期を遂げたと考えるとドラマチックですよね。

ただ現実には織田信長が本能寺に正室を帯同していたとは考えにくいので、
信憑性に欠ける説だと思います。

●安土殿は濃姫か?

当時の文献に「安土殿」と呼ばれる女性が出てきます。
彼女は織田信長の一周忌法要を営んでいるのです。

また化粧料と呼ばれる相続遺産において、
安土殿がたくさんの化粧料をもらっていることからかなり身分の高い女性だったことがわかります。

安土殿という織田信長の居城の名前で呼ばれていることからして、
織田信長の正室であり、濃姫だったのではないか?という見方があります。

安土殿は江戸時代まで生き、78歳でこの世を去りました。
織田信長の菩提寺に葬られているので、正室濃姫だった可能性は大いに高いのです。

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●まとめ

いかがだったでしょうか?
本能寺で死んだ説、長生きした説を紹介しましたが、
他にも二十歳ぐらいで死んだと推測する学者もおり、謎に満ちた存在である濃姫。

いずれにしろ文献からして織田信長と濃姫が離縁した事実はないことがお判りいただけたかと思います。

個人的には78歳まで生きた長生き説が本当ならいいと思います。

濃姫によって一周忌法要が営まれ、織田信長の分まで生きたなら彼も浮かばれますよね。
激動の戦国時代から太平の世である江戸時代まで生きて、時代の変遷を見届けた濃姫。

穏やかな胸中であの世に旅立ったのではないかと思います。

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