【歴史トリビア】真田幸村と茶々の関係は??豊臣秀吉とは?実は、、、

真田幸村と茶々は大河ドラマのテーマになったことのある2人なので、
なんとなく知っているという人も多いのではないでしょうか?

戦国の時代が好きな人たちの間でも人気のある人物だと思います。

今回は真田幸村茶々の人物像と2人の関係性、
豊臣秀吉との関係について解説していきます。

最後まで読み進めて頂くと、戦国の時代を生きた真田幸村と
茶々の関係性や2人と豊臣秀吉の関係性について理解を深めて頂けると思うので、
是非お付き合いください。

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●真田幸村の人生と功績


戦国武将・真田幸村は、大坂夏の陣で敵である徳川方の本陣に迫り、
徳川家康を危機に陥れた事で有名です。

幸村が生まれたのは、
1567年に甲斐の武田家に仕える真田昌幸の次男として生を受けます。

1600年には、父と共に関ヶ原の戦いに加わります。

この時、兄は家康側につきましたが、
幸村と父は石田三成側に味方しました。

そして、幸村と父は流罪にされてしまったのです。

流罪に先での2人の生活は困窮を極めました。

幸村は配流地で子供が出来ますが、
生活の困苦によって年老いてしまったようです。

しかし、幸村にチャンスが訪れます。

徳川氏と豊臣氏との対立が深まったおかげで、
復帰の可能性が出てきたのです。

幸村の元に大坂城から使者がやって来て、豊臣方に加勢することを要請したのです。

幸村は豊臣に積極的に徳川方を攻撃すべしとの主張をしたと言います。

しかし、軍議の結果は籠城策が採用され、幸村の策は採用されませんでした。
幸村は、大坂冬の陣(1614年)にて、砦を築きます。これが有名な「真田丸」です。

この真田丸で混乱の中、徳川方の多くの将兵が戦死しました。

豊臣家と和議を結びます。

しかし、講和成立後、大坂城の堀は埋め立てられ
城は徳川方により無力化されます。

豊臣秀頼が浪人衆を解雇します。

そして、大坂夏の陣(1615年)が勃発するのです。
幸村は茶臼山に陣取り、茶臼山にある家康の本陣を急襲します。

家康の護衛は少数しかおらず、家康は切腹も覚悟したと言われています。

しかし、家康を討ち取ることは叶わず、幸村は切腹し、49年の人生を閉じました。

●茶々の人生

北近江の戦国大名・浅井長政と織田信長の妹・お市の長女として、
小谷城で誕生します。

妹に初と江がいます。

お市の結婚は、長政と同盟を結ぶためのものでした。

しかし、1570年に長政は同盟関係にあった朝倉義景を支援し、
信長に背きます。姉川の戦いで大敗します。

1573年に小谷城は落城します。

このとき、攻撃したのは木下藤吉郎でした。

長政は自害し茶々はお市・妹とともに城を脱出し、清洲城で育てられたそうです。

1582年に本能寺の変で信長が自刃します。

お市は、信長の家臣•柴田勝家に再婚することになり、茶々もついていきます。

しかし、1583年に勝家は賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、お市とともに自害します。

その後、茶々は秀吉に保護され、引き取れられることになります。

そして、茶々は秀吉の側室となります。

1589年に茶々は鶴松を産みますが、1591年に亡くなってしまいます。

しかし、1593年に秀頼を産み、権威を強めます。

1600年の関ヶ原の戦いで、茶々と近い関係のあった石田三成が滅び、
徳川家康が覇権を握ると、豊臣家の地位は下がってしまいます。

ここで大阪冬の陣が開戦し、豊臣方は敗北。

敗戦処理に追われている間にも大坂夏の陣が1615年に開戦し、
大坂城は落城します。

茶々は秀頼とともに城中で自害し、豊臣氏は滅亡しました。茶々は49歳でした。

●真田幸村と茶々、豊臣秀吉の関係

幸村は秀吉に官僚予備軍的な立ち位置で、使えています。
その為、秀吉恩顧の大名•大谷義継の娘を妻として迎えています。

幸村が秀吉の側近であった為に、茶々とも関係があるのではないかという推測が多いですが、
2人には大きな身分の隔たりがあります。

よって、2人の関係は顔見知り程度でしょう。

大阪の戦いの時、幸村は豊臣方に重用されているので、
実力の程度は知られていたのかもしれませんね。

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まとめ

今回は真田幸村と茶々がどのような人物だったのかと
豊臣秀吉との関係性について解説しました。

2人とも戦国の時代を強く生きて、豊臣秀吉に人生を翻弄された人物でした。

真田幸村は豊臣方を武力とその知略で支えました。
真田丸での獅子奮迅の戦いぶりで、家康に切腹を覚悟させたという逸話は後世まで語り継がれています。

茶々は戦国の世に人生を翻弄されながらも、しっかりと自分を持ち、
戦国の荒波に抗い続けた強い女性でした。

この2人の関係性は大河ドラマの真田丸などで、
注目されていたので、興味があった方も多かったと思います。

実際に、豊臣方の家臣と主人として関係があり、互いの活躍を認知していたことでしょう。
今回も最後まで、お付き合い頂きありがとうございました。

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