【歴史トリビア】直江兼続は、どんな人だったのか?? 意外なトリビアも紹介!!

直江兼続と聞いて思い浮かべるのは、
兜の前立に掲げられた「」の一文字や上杉景勝との主君の固い絆などを
思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。

愛や義というイメージの強い武将ですが、いったいどんな人だったのでしょうか。

生涯を振り返りながら人物像を見ていきたいと思います。


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・少年時代

直江兼続は1560年「桶狭間の戦い」の年にこの世に生を受け、
幼名を樋口与六(ひぐち よろく)といいました。

樋口家は、木曽義仲の臣で木曽四天王の一人「樋口兼光」が祖と伝わります。

一族はその後越後に移り住み、代々、上田長尾家に仕えました。
直江兼続の父、樋口兼豊も上田長尾家で坂戸城主の長尾政景に仕えていました。

*謙信、景勝との出会い

直江兼続を語る上で、やはり上杉景勝の存在は外せないでしょう。
景勝とはどんな人だったのでしょうか。

上杉景勝は、長尾政景とその妻であり、
上杉謙信の姉でもある「仙桃院(せんとういん)」の間にできた子で、
長尾家の次男として生まれます。

景勝が10歳のとき、父長尾政景が突然の不幸に見舞われ帰らぬ人となりました。

幼かった景勝は上杉謙信の養子となり、春日山に移ります。

この時、5歳下の後の直江兼続となる樋口与六も、
ともに春日山に移り住んだと言われます。

2人の少年たちは、軍神と言われながらも、
己の欲のためではなく義のために戦ったと言われるほど
義に厚い上杉謙信のもとでその背中を見て育ったことが、

その後の人生に大きな影響を与えたものと思われます。

・謙信死す

1578年3月 上杉謙信が49年のその生涯を閉じました。

脳卒中だったと言われ、突然の死は後継者争いへと発展していきます(御館の乱)。

上杉謙信には、景勝の他にもう一人養子として、
北条氏康の七男「上杉景虎」がいました。

北条家の後ろ盾もあり、後継者争いは当初景虎側が優勢でした。

劣勢だった景勝側は、対抗策として武田家(武田勝頼)との同盟締結に成功。

これを機に見事形勢逆転し、最終的に景虎を自害に追い込み、
後継者争いに終止符を打ちました。

・直江兼続の誕生

1581年 与板城主 直江信綱が御館の乱後の論功行賞を巡るトラブルがもとで、
春日山城内で毛利秀広に殺害される事件が起きました。

直江家の断絶を憂いた景勝は、樋口兼続を直江家に婿養子として入らせ家督継承させます。

兼続は、このとき生涯の伴侶となる直江信綱の妻であった
「お船(おせん)」と夫婦になりました。

これが事実上の「直江兼続」の誕生の瞬間です。

*直江兼続の妻子はどんな人

直江兼続には側室はなく、生涯をお船とともに過ごし、
1男2女の子宝に恵まれました。

子供たちはどんな人だったのでしょうか。

長男の景明(かげあき)は、
大阪の陣に参戦後まもなくその生涯を閉じたと言われます。

長女は於松(おまつ)といい、1604年に徳川家の重臣 本多正信の次男を
婿養子として迎えますが、その翌年に病死。

次女は名前など詳細不明。

没年1605年と伝わります。

兼続の子供たちは残念ながらいずれも
兼続よりも先に亡くなってしまったようです。

・天下人からも愛された男

1582年に織田信長が本能寺で倒れたあと、織田家中の権力争いに打ち勝った豊臣秀吉
天下人となります。

賤ケ岳の戦いの折、越中攻めなどに協力した関係から、
上杉家と豊臣家は良好な関係にあったことなどから、
上杉景勝は豊臣秀吉の臣下となり、以後、豊臣大名として活躍していきます。

景勝の家臣である直江兼続の才覚は、欲しがりな秀吉から官位や豊臣姓を授けられ、
直臣として取り立てたいと猛烈なアプローチを受けましたが、
主君である景勝を差し置いて秀吉の求めに応じることはありませんでした

・会津移封

1598年に会津の蒲生氏郷が亡くなると、徳川家康、伊達政宗への抑えのため、
秀吉は、上杉景勝に会津の地への移封を命じます。

会津120万石(兼続には米沢30万石が与えられた)への加増移封ではありますが、
父祖代々の地であり、故郷である越後を離れる思いは想像に難くありません。

・直江状

豊臣秀吉や前田利家の死後、五大老筆頭の徳川家康の専横が目に余るようになります。

その矛先が上杉景勝にも向けられ、景勝に上洛を命じる書状が届きます。

これに対して、直江兼続が有名な「直江状」と呼ばれる書状を送りつけます。

家康の一方的な決めつけに対してとつとつと苦言を呈した内容で、
これが上杉討伐へと発展していきます。

・米沢へ

1600年 徳川家康と石田三成の争いはついに関ヶ原の戦いへと発展していきます。

上杉家は西軍の石田三成に呼応し、最上家の長谷堂城を囲みます。

しかし、予想以上の抵抗にあい、容易に城は落ちず、
そうこうしているうちに伊達政宗が最上の援軍として出陣してきます。

さらに関ケ原で石田三成が敗れたために西軍の敗北が決定

景勝と兼続は家康に謁見し、上杉家は、
改易は免れたものの会津120万石から米沢30万石への移封を命じられます。

一気に領地を4分の1に削られた上杉家でしたが、
直江兼続は自らの知行を大きく減らしてでも家臣を解雇することなく守り抜きました

また、治水工事などを積極的に行い、
石高をあげ、家臣や後世のために尽くしました。

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・まとめ

直江兼続とは、どんな人だったのか。

幼いころに上杉謙信から学んだ「義」を重んじ、常に主君を支え、
家臣や領民思いの直江兼続は、誰からも愛される人物でした。

兜の「愛」の字は、信仰していた愛染明王からとったものと言われますが、
文字通り愛に溢れた人物でもあったと思います。

1619年 60歳でその波乱万丈な生涯を閉じた直江兼続は、
今、山形県米沢市の林泉寺で静かに眠っています。

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