【歴史トリビア】あれっ?イメージと違う?前田慶次と前田利家の関係とは?

織田信長の家臣であり、後に加賀百万石の大名となった前田家。

その始祖である前田利家と天下御免の傾奇者として
数々の逸話が残る前田慶次。

2人はどんな関係にあったのだろうか。

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前田慶次、前田利家 2人の年齢差

前田慶次は、前田利家の兄利久の養子であり、
実父は滝川益氏といわれている。

利家とは直接的な血縁関係のない叔父と甥の関係になる。

現在、漫画のキャラクターイメージが強い慶次ではあるが、
生没年ともはっきりしない。

生年は1533年もしくは1541年、
没年は1605年とも1612年ともされている。

その名についても利益、利太などいくつか残されているが、
ここでは慶次として統一していく。

また、生没年は1541年-1612年としたい。

これは、前田利家の生没年が1538年-1599年とされており、
兄と利久(慶次の養父)が生年不詳-1587年没という関係から、
少なくとも兄利久の生年は1538年よりも前であり、
確証はないが1530年頃となると考えられる。

仮に慶次が1533年生まれだとすると、
利久は、ほぼ同年の養子をとったことになり、
常識的には考えにくい。

利久の生年を仮に1530年とした場合、
慶次が1541年生まれであれば、11歳差であり、
利久20歳―慶次9歳という関係になり、
十分にあり得ることとなるためである。

さらにいうと実父益氏の生年が1527年であることからも
慶次1533年生説は現実的ではないだろう。

さもすれば、慶次と利家の年齢差はわずか3歳差となり、
漫画のキャラクターイメージとはまた違った関係性が
想像されてくるのである。

前田家の家督継承

前田家の当主は、利久・利家兄弟の父利昌が1560年に没したのち、
利久が継承している。

この頃、利家は織田信長の同朋衆を斬殺し、
信長の怒りを買い浪人となっていた時期である。

順調にいけば、利久のあとは養子である慶次となるはずであった。

しかし、織田家に帰参した利家は元来信長の信頼も厚く、
いくさ働きも抜群であった。

そして1569年信長は病弱な利久に対し、
突如、利家に前田家の家督を継承させた

このとき慶次28歳。

後継者から一転、居城の荒子城をおわれる立場となった。

その後、
一説には京都に身をおいていたとも言われるが定かではない。

ただし、利久の墓所は前田家の歴代当主が眠ることとなる金沢市の
野田山におかれ、利家は利久の下段に墓所を設けたことからも

兄弟の絆、敬愛の念は変わらなかったものと思われるため、
近くにいた可能性が高いと考えられる。

その後、史上に名がみえるのは1581年に利家が
能登に領国を移したときで、慶次は阿尾城(富山県氷見市)城代と
して利家の家臣となっている。

天下御免の傾奇者

その後、1584年小牧・長久手の戦い、
1590年の小田原北条氏攻めなどに前田利家に従って、
前田慶次も参戦している。

小田原攻めのあと、いよいよ慶次は前田家を出奔する。

1590年の小田原攻め当時、慶次は49歳

人生50年といわれていたこの時代、
かの織田信長や上杉謙信も49歳でその人生をとじている。

3年前に養父利久が亡くなり、
自身と前田家の関係に一つの区切りがついていたこと、
人生後半戦の節目の年代であったことなどから
思い切っての決断であったと思われる。

血縁関係がなかったとはいえ、
前田家の一族衆の立場であった慶次が出奔することは、
前田家にとっても世間的にも大きな衝撃を生むものであった。

水風呂の逸話が本当だとすれば、
慶次なりの前田家に対する世間への風聞を和らげるための
心遣いであったのであろう。

こうして、前田家との関係を断った前田慶次の一武将として、
秀吉から「天下御免の傾奇者」の称号を受けた痛快な生き様が
ここから始まっていくのである。

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ともすれば、前田家の当主としてその名を
後の世に残していたかもしれなかった男と、五大老の一人となり、
加賀百万石の初代藩主としてその名を残した前田利家。

いずれも華々しい戦国の生き様として魅力的な男達である。

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