沖田総司と土方歳三の関係 ~天才剣士と鬼の副長はエモい仲だったのか?~
歴史好きな人たちの間でも絶大な人気を誇るのが「新選組」。
刀一本と強い志を持ち、激動の幕末を駆け抜けた彼らの姿は、
今なお人々を魅了し続けています。
そんな新選組の中でも、特に人気が高いのは局長の近藤勇よりも、
副長の土方歳三と、一番隊隊長の沖田総司の二人ではないでしょうか。
近藤と土方、近藤と沖田の関係について書かれた記述はあっても、
沖田と土方の関係がどのようなものだったのかに関するものは、実はあまり多くありません。
ここでは、筆者の独断と偏見で二人の関係を考察していきたいと思います。
まずはそれぞれの生涯を簡単に振り返ってから、二人の関係性をみていきましょう。
●沖田総司
1842年生まれ(1844年とする説もあり)。幼い頃に両親を亡くした沖田は、
9歳のときに近藤勇の養父であった近藤周介の内弟子となり、試衛館に入門、天然理心流を学びます。
天賦の剣術の才能に恵まれていた沖田はすぐに頭角を現し、
若くして免許皆伝を受け、試衛館の塾頭も務めました。
同門で8歳年上の近藤勇のことを、本当の兄のように慕っていたといいます。
近藤や土方らと共に「浪士組」として上洛し、のちに新選組を結成。
沖田は一番隊隊長を務め、芹沢鴨の暗殺や、かの有名な「池田屋事件」においても活躍しました。
池田屋に切り込んだ際に喀血し、当時は不治の病と言われた肺結核を発症したとされています。
しかし、これは史実ではなく、後から付け加えられた作り話だという説もあり、詳しい発病時期はわかっていません。
段々と病が進行し、「鳥羽・伏見の戦い」にも参加できず、療養のために江戸に戻った沖田。
自身の容態が悪化していく状況においても、
兄と慕っていた近藤のことを常に気遣っていたといわれいます。
近藤が斬首されたことは知らされないまま、その約2ヶ月後に亡くなりました。
享年は24歳、25歳、27歳と諸説ありますが、志半ばで若くして散ってしまったことは、間違いありません。
戦の場面においては天才剣士として恐れられていた沖田総司ですが、
普段は温和な性格で、こどもと一緒に遊ぶ姿もよく見られたといいます。
新選組について描いた人気歴史小説「燃えよ剣」の作者である司馬遼太郎氏は、
その執筆のための取材において、幼い頃に沖田に遊んでもらったことのある女性にインタビューしたそうです。
●土方歳三
1835年生まれ。十人兄弟の末っ子だった土方は、‟バラガキ“と呼ばれるやんちゃな幼少期を過ごしました。
十代の頃は江戸へ奉公に上がり、
その後は実家秘伝の「石田散薬」を行商しながら、行く先々で剣術の修行に励みます。
土方が天然理心流の試衛館に正式に入門したのは24歳の頃ですが、
近藤や沖田らとは、それ以前から出稽古先において交流があったようです。
1歳年上の近藤勇とは非常に馬が合い、また、土方の義兄であった佐藤彦五郎と近藤が義兄弟の契りを交わしていたこともあり、
近藤と土方もまた、義兄弟となりました。
28歳のとき、近藤らとともに「浪士組」に参加し、
京都へ赴きます。その後、新選組を結成し、土方は副長を務めました。
寄せ集めの浪士集団だった新選組を統率すべく、徹底した規律を求めて「局中法度」を定めます。
その規律を破ったものには切腹を命じるなどして、厳格な組織運営を行いました。
これが、土方が‟鬼の副長“と呼ばれた所以です。
新選組の局長は近藤ですが、実際の指揮命令は土方から発せられていたともいわれています。
‟鬼の副長“と呼ばれた反面、‟赤子の母を慕うがごとし”と評されるほど、部下に慕われていたとの記録もあります。
また、その端麗な容姿ゆえに、女性からとても人気がありました。
そして、俳句や和歌をたしなむといった文化人的な側面や、
いち早く洋装や西洋の武器を取り入れるなど、古いものに捉われない合理主義的な面も持ち合わせていたといいます。
大政奉還後も、旧幕府軍として、新政府軍を相手に戊辰戦争を戦い続けた土方でしたが、
函館五稜郭での乱戦中に腹部に被弾し、34歳でその生涯を終えました。
●沖田と土方、試衛館での出会い
二人がいつどのようにして出会ったのかについて、明確な記録は残されていませんが、
恐らく、土方が試衛館に出入りするようになった頃に出会ったと考えられます。
その時、すでに沖田は試衛館に入門してから数年が経っており、年齢は土方より沖田の方が7歳下ですが、
門下生としての経歴および剣術の腕前は、沖田の方が圧倒的に上回っていたはずです。
しかし、古い因習に捉われず、愚直に強さを求める土方の性格から拝察するに、
年下である沖田から剣術指導を受けることにも抵抗はなかったのではないかと思われます。
互いに研鑽を重ねて強くなっていったことでしょう。
●二人はエモい関係だったのか?
みなさんの中には、もしかすると沖田総司と土方歳三が、
特別に深い絆で結ばれた関係にあったと考えておられる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
しかし、これは明確な記録に基づいた史実ではないのです。
司馬遼太郎氏の歴史小説「燃えよ剣」において、鬼の副長と恐れられた土方が、
唯一、心を許せる相手として沖田を描いたことが、
二人の関係が特別なものであるというイメージとして定着したと言われています。
また、数年前に公開された同名の映画「燃えよ剣」の中で、岡田准一氏演じる土方と、
山田涼介氏演じる沖田の‟エモい“やりとりを観て、さらにそのイメージを膨らませた方も少なくないことでしょう。
鬼の副長と薄命の天才剣士が、互いに唯一無二の存在であったというのは、とても美しいストーリーで、
想像力を掻き立てますが、残念ながらそれを裏付ける証拠は見つかっていないのです。
病床にあった沖田が、「近藤先生はどうされているのでしょうか」と案じていたという記録はあれど、
土方を気にかけていたという記録は残っていないようです。
しかし、反対に、二人の仲が悪かったという記録も残されてはいません。
ということは、二人が特別な関係に合ったということを、否定する証拠もまた、ないのです。
ですので、沖田総司と土方歳三がどのような関係にあったのかを想像することは、
みなさんの自由であり、想像力に委ねられているのです。
筆者はやはり、例え明確な証拠がなかろうとも、幕末という激動の時代の最前線を共に戦い続けた二人の間には、
何かしら特別なものがあったと信じたいと思います。
‟鬼の副長“と呼ばれていた土方ですが、実はそれが本当の彼の姿ではなく、
副長という組織をまとめる立場にあったからこそ、その責務を果たすために悪役を買って出ていたのかもしれません。
もしそうであれば、本音を打ち明け、心安らげる相手=沖田がいたことが、どれほど土方の救いになっていたでしょうか。
また、土方が沖田にだけ本来の自分をさらけ出していたとするならば、
その姿が他人の目に触れることはなかったでしょう。
二人の関係についての記録が残っていないのは、人知れず、二人だけで語り合っていたから、ということも想像できます。
●まとめ
ここまで、沖田総司と土方歳三、天才剣士と鬼の副長の関係について考察してきました。
二人が生きた時代から150年以上が経ち、その真実を検証する術はありませんが、
明らかにされている史実や、司馬遼太郎氏をはじめとした偉大な歴史作家たちが想像した人物像を元にして、
二人の関係性を想像してみるのも、歴史を知り、学ぶ、ひとつの楽しさではないでしょうか。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。