【歴史トリビア】戦国時代は日本刀を戦場では使わない??当時の日本刀の価値観てどうなの??
戦国時代は弓や槍が主流でした。
しかし、だからといって日本刀を使わないということはありませんでした。
事実、刀鍛冶(刀工)という職もありました。
なら弓や槍、鉄砲が入ってきた当時において
日本刀とはどのような価値をもっていたのでしょうか。
刀を使わないという印象がどのようについたものなのか、
まとめてご紹介したいと思います。
Contents
●日本刀について
日本刀は打ち方によって刃文や形状などで特徴に差があり、
戦闘能力に長けていただけでなく美しさとして美術的価値もありました。
多くの名工によって作られ、有名な刀工のものは独自の技術や特徴を持ち、
見た目の美しさと切れ味によって評価をされました。
戦国時代において刀とは武器としてだけでなく、
武士であることや名誉の証として用いられていました。
そのため、主君や位の高い人から賜ったものはその家代々子孫に受け継がれ、
家宝として大切にされていました。
おそらく、戦国時代に日本刀を使わないというイメージは
ここからきているように思います。
現代において美術館や博物館などで多く日本刀が見受けられるため、
武器というより美術的観賞としての意味合いとして受け入れることの方が多く、
家宝として大切にされてきたその証であると同時に、
刀を使わないというイメージに繋がったように思います。
戦場においては接近戦で主に使用され、
集団や一騎打ちなどで使われることが多かったです。
事実戦場跡などに立つ像は刀が多い印象です。
しかし、誉の証でもあるため平時でも身に着けるようになり、
江戸以降も武士の文化として引き継がれていったようです。
●主な戦国時代の刀工
戦国時代に活躍した有名な刀工には、どのような人物がいたのか、
代表的なものを一部ご紹介します。
*備前長船光兼(びぜん ちょうせん みつかね)
備前国(現在の岡山県)で活躍した刀工で、備前長船派の祖とされています。
彼の代表的な作品として「備前光兼」が知られており、
刀身の美しさや鋭い切れ味で高く評価されています。
*武蔵国住宗光(むさしのくにずみみつみつ)
武蔵国(現在の東京都)で活躍した刀工で、室町時代後期から戦国時代にかけて活躍しました。
彼の代表的な作品は「宗光」として知られ、鍛造技術の高さと美しい刃文で評価されています。
*山城国住谷秀(やましろのくにずみやひで)
山城国(現在の京都府)で室町時代後期から戦国時代にかけて活躍した刀工です。
彼の代表的な作品は「谷秀」として知られ、流麗な刃文と鍛造技術の高さで評価されています。
これらの刀工たちは、日本刀の鍛造技術や美学を高め、その作品は現代でも多くの人々に称賛されています。刀工から刀を辿ると各刀工の特徴の差異を細かく知ることが出来るのでなかなか面白いです。
●戦国時代の主な刀
次に戦国時代に作られた有名な日本刀について、特に名高いものを一部ご紹介します。
*太郎左衛門尉乗助(たろうざえもんのじょうすけ)
別名、宗三左衛門。刀工、片岡宗三によって作られた刀で、後に豊臣秀吉の所有となりました。
この刀は後に豊臣秀吉のもとで使用され、「石をも断つ」という逸話で有名です。
*石舟斎光隆(せきしゅうさいのみつたか)
安土桃山時代に活躍した刀工で、その代表作の一つに「銘 吉原石舟斎光隆」と刻まれた刀があります。
この刀は後に徳川家康が所有し、非常に名高いものとされています。
*大典太光世(だいてんたのみつよ)
桃山時代に活躍した刀工、長船光世によって作られた刀で、後に豊臣秀吉の所有となりました。
この刀は「大典太」として知られ、その美しさと切れ味で有名です。
これらの刀は戦国時代に作られ、その後も多くの武将や大名によって所有され、
その名声は現代に至るまで続いています。
刀から辿ると多くの人の手に渡るため、様々な逸話があって面白いです。
●まとめ
戦国時代の刀は使わないということはありません。
しかし、その美しさから美術的価値が高いことで知られているため、
そこが印象付けられた結果だと思います。
また、刀や刀工にはそれぞれ歴史やエピソードがあり、
追っていくと武器でありながらかなり興味深いことも知るきっかけになります。
今やゲームで刀は人気なようなので、
ゲームや実際に本物を目にしてより日本刀の世界を知ってみるのもおすすめです。