【徹底調査】大谷翔平が野球を始めたのはいつ??小学校時代~中学校時代編
ドジャースへの移籍後も勢いを落とすことなく活躍を続ける大谷翔平選手。
大谷翔平選手は野球選手としてこれまでに数々の偉大な記録を打ち立ててきました。
そんな大谷翔平選手はどのような軌跡をたどってプロ野球選手になったのでしょうか。
今回は大谷翔平選手がいつから野球を始めたのかについて調査をしてみました。
ぜひ最後までご覧ください。
●大谷翔平はいつ野球を始めたのか
大谷翔平選手は三菱重工横浜に野球選手として所属していた父と、
同じく三菱重工横浜にバドミントンの選手として所属していた母から産まれました。
ご両親がともにスポーツをされていた影響もあり、
大谷翔平選手は幼い時からバドミントンと水泳を習っていたそうです。
小学校2年生の秋に友だちから誘われたことをきっかけに野球を始めました。
大谷翔平選手が所属していたのは、水沢リトルリーグです。
大谷翔平選手はチームに所属するより前に父や兄とキャッチボールをしており、
幼いころより野球に触れていたそうです。
中学校時代は地元の部活動には所属せず、一関リトルシニアに所属していました。
そして高校時代は花巻東高校の野球部に所属します。
●大谷翔平の、とんでもない小学校時代
大谷翔平選手が小学校時代に所属していたチームは水沢リトルリーグです。
水沢リトルリーグでは、大谷翔平選手の父である大谷徹さんがコーチと、
後に監督も務められ、大谷翔平選手に指導します。
大谷翔平選手はリトルリーグに入ってから、すぐにプロ野球選手を志していたそうです。
小学生の時に抱いた夢を実現しているのですね。
入団したてはポジションが固定されておらず、
ピッチャーやショート、外野手を経験したそうです。
大谷翔平選手が水沢リトルに所属していた際、
大谷翔平選手に引っ張り禁止令が出されたことがありました。
引っ張りとは自分の身体の方向に向かって打球を飛ばすことを言います。
例えば右打者なら左方向に、左打者なら右方向に打つことを引っ張るといいます。
大谷翔平選手は左打者なので、
右方向へ打球を放つと引っ張ったということになります。
引っ張って打つことができるのも大切であるように思えますが、
なぜ大谷翔平選手に引っ張り禁止令が出されてしまったのでしょうか。
その理由は水沢リトルが使用していたグラウンドの立地にありました。
水沢リトルのグラウンドは奥州市内を流れる胆沢川の河川敷にありました。
川はライトの奥に流れていました。
フェンスはホームベースから60mくらいのところにあって、
川まではそこからさらに10mくらい距離があり、普通はフェンスを越えても川まで飛ぶことはありません。
ところが、大谷翔平選手はバッティング練習で打球を次々と川に放り込んでしまったそうです。
硬式ボールは、水に濡れると使い物にならなくなってしまいます。
そこで大谷翔平選手に引っ張り禁止令が出されてしまったのですね。
大谷翔平選手の小学生時代のすごさを象徴するようなエピソードです。
●大谷翔平の、とんでもない中学校時代
大谷翔平選手が中学校時代に所属していたチームは一関リトルシニアです。
地元から車で1時間ほど離れた距離に練習場があったそうです。
一関リトルシニアでも父の徹さんがコーチを務めていました。
徹さんは大谷翔平選手が小学生のころから合わせて七年間も大谷翔平選手に指導されていたそうです。
大谷翔平選手にとって徹さんは父でもあり師でもあったのですね。
中学の頃はピッチャーとショートを守っていたそうです。
バッターとしては、場外ホームランをよく飛ばしていて、
グラウンド外にある信号機を破壊したこともあったそうです。
中学校時代も規格外のエピソードを持っていてすごいですね!
まとめ
大谷翔平選手は小学2年生という早い時期からチームに所属し、
野球を始めていたということが分かりました。
さらに、チームに所属する前から父や兄とキャッチボールをするなど、
速い段階で野球に触れてきたのだということが分かりました。
大谷翔平選手は母が元バトミントン選手、父が元野球選手と環境にも恵まれていたのですね。
早くからスポーツに親しみ、野球と出会えていたからこそ現在の大谷翔平選手があるのかもしれません。